知性と野生 ふたつの交差点
ジャオ自身は、『ノマドランド』ではフランシス・マクドーマンド演じる放浪者の心のゆくえを描き、『ハムネット』ではシェイクスピアの妻だったアグネスの心情の変化を追っている。
一方、負傷したロデオ・ライダーを主人公にした『ザ・ライダー』(17)では、主人公の青年に寄り添った。女性だけではなく、人間のふたつの側面に興味あるようだ。
「ふたつの異なる力が人間の心の中や自然界にはあると思います。中国の思想でいうと陰と陽、男性性と女性性ですね」と前述のインタビューで彼女は語る。
『ハムネット』で中心になるのは、妻のアグネスが代弁する自然界と、夫のシェイクスピアに象徴される知的な世界の対比だ。シェイクスピアの妻は読み書きができなかったとされるが、この映画のアグネスは森の中にいることを好み、最初の出産も森の中で行う。そして、薬草の知識に詳しく、鷹とも心を通わせることができる。文字は読めなくても、自然の動きを読みとることができる。
一方、夫の方は文字を使って、自身の世界を生み出し、都市部で活躍している。そんなふたりについてジャオはインタビューでこうも語っている。
「ここに登場するふたりは、この世のエネルギーのふたつの形をそれぞれに持っています。妻は森の中の物語を語ることができる。夫は舞台の上で自身の物語を上演します」
そして、息子のハムネットをめぐる悲劇が起きた時、彼女は感情をストレートに表現するが、夫はその時、涙を流すことさえできない。
「自分では彼の気持ちもよく分かります。私自身はこういう男性像にひかれます。でも、こういう嘆き方は実はひじょうに辛いことでもある。そこには恥の感情があり、自分の感情をはっきり見せることができないからです」
こんな夫婦のあり方についえ彼女はこう考えているようだ。
「でも、夫婦の性格が違うからこそ、補えあえる部分もあります。この世を作り上げているふたつの力を彼らがそれぞれに象徴していて、悲劇が起きることでそれが表面化する。お互いを理解できなくなるわけです」
息子ハムネットに対する思いが違うことが、悲劇によって明らかになる。そして、ハムネットの悲劇によそよそしく思えた夫が書いた「ハムレット」の舞台が上演され、傷心をかかえた妻は舞台に見に行く。
「ふたりの再会で、すべてがうまくいくわけではないのですが、でも、お互いを理解することはできるようになります」
そんな異なるふたつの言葉、野生の知性と文字の知性を夫婦に託して描くことで、この宇宙がかかえる大きな力について気づかせる作品でもある。

『ハムネット』©2025 FOCUS FEATURES LLC.
ちなみに小説と映画の1番大きな違いは、その構成だろう。映画は時系列的に物語が進み、アグネスとシェイクスピアの出会いと結婚、3人の子供の出産、息子の悲劇、という順番で描かれるが、小説はハムネットに悲劇が訪れる直前の描写から始まる。その頃、ペストが流行していて、11歳の双子のうち、ジュディスが熱に倒れ、ハムネットが動揺する場面から始まる。
家には誰もおらず、少年はあわてている。しかし、そのすぐ後に、別の時制に飛び、彼の両親の出会いが描かれ、再び、ハムネットの動揺の描写に戻っていく。映画でいうと、カットバック方式で、過去と現在が交錯し、遂にハムネットに悲劇が訪れる。この構成にはミステリーを読むようなスリルがある(これが第一章で、二章目以降は、映画と同じように時系列で進む)。
そして、クライマックスのグローブ座での「ハムレット」の上演場面。映画には、ノア・ジュープ演じる青年、ハムレットが登場し、芝居の有名な場面が次々に登場する。見ていると、ハムレットがハムネットの分身であることが分かる。アグネスは夫の創作の力と真意を初めて理解する(ハムレット役のノア・ジュープはハムネット役の少年、ジャコビ・ジュープの兄。ふたりが似ているので、シェイクスピアのコンセプトが伝わりやすい)。
一方、本では創作の力というよりも、「ハムレット」の設定が説明される。夫は舞台の上でハムレットの父の幽霊となって現れる。父が死を引き受け、息子はこの世にいる。この設定にアグネスは、父親としての夫の現実とは異なる願望を読み取り、深く心を動かされる
映画と小説のそれぞれのニュアンスの異なるクライマックスによって、この作品の奥行きの深さが伝わってくる。