『ハムネット』あらすじ
1580年イギリスの小さな村。貧しいラテン語教師ウィリアム・シェイクスピアは、森を愛する自由奔放なアグネスと出会う。2人は互いに惹かれ合い、情熱的な恋愛の末に結婚して3人の子供を授かるが、ウィリアムが遠く離れたロンドンで演劇のキャリアを模索する一方、アグネスは独りで子どもたちを守り家庭を支えていた。そんななか一家に大きな不幸が訪れ、かつて揺るぎなかった夫婦の絆が試されることになる――。
Index
- 心に刻み込まれる喪失と再生の物語
- 製作までのいきさつ
- 知性と野生 ふたつの交差点
- クロエ・ジャオが東京で語った世界観
- オスカーも受賞したジェシー・バックリーの役作り
- ハムネットをめぐる映画――『シェイクスピアの庭』との比較
心に刻み込まれる喪失と再生の物語
クロエ・ジャオ監督が作った『ハムネット』(25)は、見た人の心に深く刻むこまれる作品ではないかと思う。主人公アグネスに扮したジェシー・バックリーが森の中で横になっているオープニング場面から、クライマックスのグローブ座の場面までぐっと引き込まれる。大きな失意をめぐる再生の物語で、痛みを伴う場面も多いが、それでいて人が失意から立ち上がる過程が「ハムレット」の舞台での上演を通じて視覚化される。40代となったジャオ監督のさらなる進化が伝わる傑作に仕上がっている。
原作は北アイルランド出身の作家、マギー・オファーレルが2020年に発表した小説「ハムネット」(新潮社刊、小竹由美子訳)。この本のあとがきによると、オファーレルは中等学校にいた頃、シェイクスピアは「ハムレット」を書く4年前に彼の息子が亡くなったと、学校の教師から聞かされ、そのことが頭から離れなかったという。ケンブリッジ大学に進んだ彼女は、そこでシェイクスピアについて学んだが、資料には息子ハムネットに関する記述が少ないことに驚き、ますます興味を持ったという。」
そして、作家となって息子のことを調べるうちに、彼の母親だったアン・ハサウェイのひどい扱いに気づいて衝撃を受けた。
アンはシェイクスピアより8歳年上で、結婚前にすでに彼の子供を妊娠していた。ふたりは結婚するが、夫はロンドンに行き、劇作家として成功する。彼女のことを嫌っていた、という記述も資料ではかなり見かけたという。ただ、妻のところへ送金し、最後に彼は故郷に戻って、余生を妻のいる家で過ごしている。

『ハムネット』©2025 FOCUS FEATURES LLC.
こうしたふたりの関係やハムネットのことを追求したくて、彼女はノンフィクションではなく、小説という形で「ハムネット」を書き上げた。
その中で妻の名前は、アン・ハサウェイではなく、アグネスとなっているし、シェイクスピアの名前も記述されていない。ドキュメンタリーではなく、彼女の創作であることを強調したかったのだろう。
最初に映画化を企画したのはヘラ・ピクチャーズのリザ・マーシャルで、オファーレルの小説のファンだった彼女は、小説が出版される前にすでに試読版で小説を読み、映画化を考え始めた。やがて『1917 命をかけた伝令』(19)のサム・メンデス監督やスティーヴン・スピルバーグも加わった。
監督として白羽の矢が立ったのはクロエ・ジャオだった。『ノマドランド』(20)でアジア人の女性として初めてアカデミー賞を受賞していた実力派であり、中国の出身ながら、英国で教育を受けた過去もあった。「クロエこそが題材にぴったりの監督だと感じていました」とメンデスはプレスに掲載されたインタビューで語っている。こうして映画版『ハムネット』の企画が進み始めた。