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『トミー』ザ・フーと監督ケン・ラッセル、時代の転換点で出会った運命
時代を先取りした監督、ケン・ラッセル
この映画の画期的な部分はセリフがいっさいなく、歌だけで物語が綴られていくことだろう。当時はMTVのようにミュージック・ビデオを専門とするチャンネルなど存在しない時代。そんな時、アルバムを丸ごと映画化したこの映画は先駆的で、60年代のザ・ビートルズの映画『ビートルズがやってくる!ヤア!ヤア!ヤア!』(64)等と並び、80年代以降のミュージック・ビデオの原点ともなった。
ケン・ラッセルはこの映画以前に『悲愴・恋人たちの曲』、『マーラー』のようなクラシックの音楽映画を撮っているが、音楽を背景として使うのではなく、音楽にインスパイアされた絵作りを実践する。生前、ラッセル映画の伝道師として知られた評論家、今野雄二さんは監督のことを「イマジネーションの怪物」と呼んだが、「トミー」も多彩なイメージが次々に登場し、音と映像のジェット・コースターに乗っているようなスリルを体感できる。
『トミー』(c)1975 THE ROBERT STIGWOOD ORGANISATION LTD. All Rights Reserved.
それでいて、ただのミュージック・ビデオの寄せ集めのような映画ではなく、キャラクターの感覚や感情も伝わる構成になっている。ラッセルは、長年、国営放送局、BBCで修業を積んでいるので、実は職人的な部分もある。製作後40年が経過した今もこの作品が楽しめるのは、大胆な実験精神と職人的なエンタテインメント感覚が見事に融合しているせいではないかと思う。また、映像は強烈だが、その奥に優しいロマンティシズムも潜んでいて、ふとロジャーが見せるイノセントな表情にそれが出ている(ラッセルは根っこはロマンティストだ)。
三重苦を背負った少年の内なる旅(=「アメイジング・ジャーニー」)が描かれるが、その部分が掘り下げられていたアルバムとは異なり、この映画では周囲の人々のグロテスクな人間模様も浮き彫りになる(ラッセル流を通したこの解釈に作者のピート・タウンゼンドは失望したようだ)。
息子を深く愛しながらも、彼を救えない良心の呵責に悩む母親の葛藤。それが最も強烈な形で表現されているのは、セレブ生活を送り、豪華な部屋でテレビを見ながら奇妙な夢想にふける場面だろう。テレビCFとして映し出されていたチョコレートやビーンズが画面を突き破って部屋にあふれ出る。現代のバーチャル・リアリティの感覚を先取りしたような映像で、テレビCFに象徴されるコマーシャリズムを風刺したパートにもなっている(かつてラッセル自身もチョコレートのCFを手がけていたことがある)。
『トミー』(c)1975 THE ROBERT STIGWOOD ORGANISATION LTD. All Rights Reserved.
また、宗教へと走る人々の心理もかなりブラックな感覚で描写される。エリック・クラプトンが教祖を演じる「光を与えて」の場面で人々の崇拝となっているのは、マリリン・モンロー教で、モンローのお面をつけた弟子たちが教祖のまわりを歩く場面は、いつ見てもぞっとさせられる。後半では奇跡の回復を遂げたトミー自身が崇拝され、(まるでキリストのような?)存在となり、親族たちは彼のバッジやTシャツなどを販売。しかし、やがて崇拝者たちは反発を募らせる。
宗教はラッセル映画にとって重要なテーマのひとつで、代表作『肉体の悪魔』(71)でも信仰の問題を扱っていたが、トミーでも信仰心が風刺的に描写され、それが現代の新興宗教などの問題をも思い起こさせる。
また、自分の世界に引きこもり、脳内の空想世界だけで生きる主人公像もむしろ現代を先取りした人物像に思えた。そんな人物が最後にすべてを失うことで、むしろ、本当の自由を手にするというオチが心に響く。