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『ジョーカー』社会の被害者が「王の資質」を得るまで――禁忌にふれる、悪への共振

『ジョーカー』社会の被害者が「王の資質」を得るまで――禁忌にふれる、悪への共振

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狂気に「理由」が付いたとき、恐るべき共感が生まれる



 これまで築いたパブリックイメージを失墜しかねない描写の数々――本作のジョーカーは、徹底的に「被害者」だ。他人から蔑まれ、暴行され、裏切られ、嘲笑され、罵られる。だが不思議なことに、ここまで過激に改変しても、スクリーンに映るのは紛れもなく「ジョーカー」その人なのである。これは1つには、画面のいたるところに「伏線」としてジョーカーを形成する要素を盛り込んでいる点にあるだろう。


 例えば、ピエロのモチーフ。劇中では、アーサーがピエロの扮装で看板を持ち、サンドイッチマンの役割をこなすシーンや、病院慰問に派遣される姿が描かれる。ピエロは食い扶持稼ぎの手段であり、この格好に身を包めばみじめな自分は消え、人々を笑顔にする理想の姿になれる。ピエロ姿のアーサーの動作には、チャールズ・チャップリンの名作『モダン・タイムス』(36)からの影響も見て取れる(実際に本編でも同作の楽曲「Smile」が流れる)。


 滑稽だが哀愁が感じられ、年端のいかない子どもたちにこびへつらい、或いはリンチされる姿は、資本主義というシステムの食い物にされているかのよう。後述するが、「笑い」に生きることで、街に噴出する「怒り」の標的になってしまうのだ。




 そして、「笑い」だ。ジョーカーといえば「Why so serious?」(『ダークナイト』)に代表されるような「狂気の笑い」が特徴的だが、その起源についても、複数のレイヤーで回答している。1つは、アーサーが笑ってしまう病気持ちという設定。もう1つは、他者に幸福感や安心感を与えたいがための笑み。そして最後は、重く苦しい掃きだめのような現実を生きていくためのウソの笑顔だ。


 この「虚笑」とでもいうべき虚ろで哀れな「笑い」は、冒頭から強烈なショックを観客に浴びせる。アーサーが自分の口内に指を突っ込んで口角を無理やり上げ、笑顔を作り出す様子が約1分間にもわたって映し出されるのだ。悪魔に魂を売り渡したかのようなホアキン・フェニックスの強烈な演技も相まって、観客はこのアーサーという男が狂気の象徴へと至る未来を感じ取るだろう。


 人に笑いを届けたいと願う善良な人物だが、時折隠し切れない“殺意”のような鋭利な感情が覗く――『ジョーカー』は、異端の方法論ながらきっちりとジョーカーらしさをちりばめ、怪物の誕生を異様なテンションで見せつける。




 これまでとは真逆の哀切なキャラ付けを開拓したことは、一歩間違えば大やけどしかねない危険な挑戦だったが、フィリップス監督とホアキンは、見事に歴史に残る“劇薬”映画を作り上げたといえよう。


 監督が本作に影響を与えたと語る「犯罪者視点」の名作『狼たちの午後』(75)から、より優しさをそぎ落とした攻撃的な憐憫――かつてガス・ヴァン・サントは『エレファント』(03)で銃乱射事件を起こした少年たちの背景を描き、凶悪犯に同情してしまうという居心地の悪い感動を観客に植え付けたが、『ジョーカー』の鑑賞後にもそれに似た「判断の付かない共振」が待っている。


 禁忌にふれてしまったような、危うい感覚。受け入れることが間違いだと頭ではわかっているのだが、倫理観や道徳心を超越して、なびいてしまう――。皆が知っている「ジョーカー」像へと至るプロセスを見せることで、逆説的に「狂気」が際立つ構成になっているだけでなく、その裏に潜む「切望」や「痛み」と観客の感性をリンクさせ、「他人事で片付けられない」共犯関係を結ばせる。『ジョーカー』は、実に狡猾で真摯な、“情”で出来上がった映画だ。



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