クリストファー・ノーラン監督へのシンパシー
Q:そうした大友監督の流儀が様々な方に伝播して、フォーマット化したのは大きいですよね。とはいえ、ここに至るまでは、ご苦労があったと思います。
大友:ありましたね……(苦笑)。例えばドラマで借り物の衣装だとすると、汚すわけにはいかない場合も少なくない。でも、Tシャツ一つにしたってつい最近買ったものと6カ月前に買ったものだと全く異なるじゃないですか。首の部分が伸びたり、汚れが付いたり、衣装にも「年表」があると思う。そういうレベルのことを多少なりとも考える余地があるかどうかはプロダクションにとってすごく大事で、でも本来的にそういう余裕がないのが日本映画の規模感なんですよね。そこでどう頭を使い、手を動かしていくかを考えないといけない。
秋には次の映画の撮影に入りますが、いま話しているのはマスクをどうするか。僕は真面目に、「肌色のマスクを作ろうよ」と言っています。遠くから見たら、マスクをしているように見えないんじゃないかと思って(笑)。でも、こういうアナログなアイデアって、クリストファー・ノーラン監督なんかも大好きなんですよね。
Q:『ダンケルク』(17)で書割(背景などを絵で描いた大道具)を使っていましたね。
大友:そうそう。僕は、演出はある種の「思想」だと考えています。実を言うと、ものづくりにおいて僕が必要だととらえているのは、そうした細部を捉える際の“意識”なんですよね。そこに向けて走る意識をしっかり共有できれば、一人ひとりはそれぞれの方法論で好きにやっていい。
『るろうに剣心 最終章 The Beginning』©和月伸宏/集英社 ©2020 映画「るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning 」製作委員会
Q:その「思想」は、業界に入る前からお持ちだったのでしょうか。
大友:自覚はしていなかったけど、そうだったかもしれないですね。現実感のないピカピカしたものや、嵌めこんだような綺麗な作品は苦手でした。僕が子どものころだと、五社英雄監督の作品などは、人間の感情も含めぐちゃぐちゃした感じがあって、好きでしたね。
リアリティっていうのは、いわば“生活感”のことで、生活感はその人の生活の痕跡。だから、例えば日常のワンシーンでもエプロンが綺麗なままだったら「おかしいよね、それ」となって入り込めない。買ったばかりのエプロンに見えちゃうと、そこからまた別な物語が始まってしまう。フィクションではあるとはいっても、髪形が異様に綺麗に決まっていたりすると、僕の場合それだけで気持ちが離れてしまうんです。
Q:非常によく分かります。
大友:根っこはドキュメンタリーなんでしょうね。僕がNHKでドキュメンタリーを撮っていた時は、秋田赴任でしたから、農業や林業、水産業の方に取材することが多かった。会議室で座って何かをしている人たちというよりも、食産物や植物などの命あるものを扱い、育てる人たち。一方で猟師やマタギのような、それらを求めて“動く”人たちがメインの取材対象だったんです。そういう方々は、顔に残る皺(しわ)ひとつとっても、生活感というかその人たちの人生が真直ぐに伝わってくる。生き方はもちろんですが、シンプルに被写体として優れて魅力的。だから、フィクションであっても、あの時感じたような生活感や年輪を感じるものを撮りたいと思うようになりました。
『The Final』と『The Beginning』をつなぐ“日記”の重要性