映画館でしか成立しない映画を作る執念
Q:今回お話しいただいたような細部の意匠も含めて、『るろうに剣心』シリーズは映画館で観てこそ本領を発揮する映画だと思っています。大友監督ご自身は、映画館での観賞についてどんな想いを抱かれていますか?
大友:僕自身、Netflix等からお声がけいただいて配信という形態で企画開発をずっと行っているのですが、どうにも収まらないのは、「映画」といってもやはりテレビドラマに近いんですよね。それは作る者云々というよりも、やっぱり、勝負する“ハコ”がテレビやスマートフォンだから。使い古された言葉ですが、大スクリーンで観るのと自分のお茶の間で観るのとでは、没入感や臨場感が全く違う。
やはりドラマというのは、日常の中で観るもの。つまり何かをやりながら、雑音の中で楽しむものですからね。それはラジオドラマの時代からそうだし、だからこそ片手間でもわかるように、セリフで全部説明する必要があるという方法論が、長い間テレビドラマの“自由”を束縛してきた。映画に近い表現を要求されるNetflixなどの配信作品では、そうした「ブラウン管の文法」はとっくに打開されつつありますが、それでもやっぱり、普通に生活している中で十分に集中して観ることは簡単ではないと思うんです。一人暮らしの映画好き・ドラマ好きの方だったら没頭して観られるかもしれないけど、そう多くはないと思うんですよね。そもそもそうした時間を捻出すること自体が大変だし。
それでいうと、映画館は自分で主体的にお金を払って何かを体験しに行く場所ですよね。作り手の意識としても、映画館で上映される作品のほうが「色々な仕込みや仕掛けを施して、細部までこだわってやろう」となる気がします。制作費の問題というよりも、ハコの問題であり、集中して観てくれる人が集まっているからですね。言葉を交わさずとも、一緒の空間にいる人が心を動かされている空気を感じながら観る環境は、自分の部屋で観るのとは全く違いますから。逆に言うと、配信の映画などを観ていても、細部に隙のあるものがまだまだ多いように感じることはよくあります。
『るろうに剣心 最終章 The Beginning』©和月伸宏/集英社 ©2020 映画「るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning 」製作委員会
Q:「神は細部に宿る」と言いますが、作る側のテンションも、「微細な表現にまでこだわろう」と大きく異なってきますね。
大友:テレビって、そもそもがインフォメーションなんですよ。ちょっと古い例で恐縮ですが、「トレンディドラマ」はどうやって生まれたのかといえば、「こんなお洒落なところでこんな服を着てこんなものを食べている」という空間そのものをセールスするもの、つまり風俗(生活文化)を売るためのドラマでもあったわけです。そこでは登場人物の感情すら情報の集積というか、記号化していってしまう。配信作品も、テレビやスマートフォンというハコで勝負する以上、どんどん情報化していってしまう。観る側の意識としてもそうですから。
わかりやすい例だと、間(ま)や沈黙が作れなくなりますよね。配信だったら、みんな早送りしちゃうだろうし。でも映画館だったら、音や画の迫力があるから、沈黙があっても場が持つんですね。っていうか、そもそも早送りしたくても早送りできないし(笑)。あと、「いつでも観られる」と言われると、人って見なくなったりもしますね。今じゃなくてもいいじゃんってなっちゃう。映画館で上映される映画は、“いま”しか観られませんからね。