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『Single8』小中和哉監督x利重剛x手塚眞 映研が教えてくれたこと【Director’s Interview Vol.295】

向かって左から手塚眞、小中和哉、利重剛

『Single8』小中和哉監督x利重剛x手塚眞 映研が教えてくれたこと【Director’s Interview Vol.295】

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成蹊高校映画研究部



Q:皆さんが映画を撮り出したのは高校生からですか。


小中:皆バラバラですね。僕は小学生の頃からカメラは回していました。一個上の兄貴と二人で映画を作り始めたのが小学校の4~5年生ぐらいでした。


手塚:僕は中学からです。中学では写真部に入っていて、そこの仲間と同じ高校に行き一緒に映研に入っちゃった。その仲間とは中学のときからカメラで撮り合っていましたが、ただ撮ってただけで作品にはしてなかったですね。


利重:僕はいちばん遅くて高校からです。とにかく映画を作りたくて高校に入りました。成蹊高校映画研究部に入りたかったんです(笑)。


Q:当時はどの高校にも映研があったのでしょうか。


利重:映画の感想を言って批評するクラブはありましたが、“映画を作る”クラブはほぼなかった。だから成蹊の映研はすごく珍しかったんです。


手塚:成蹊の映研は十年くらい前からあって伝統あるクラブでした。卒業生も含めて先輩たちもたくさんいて、その伝統のおかげで僕らは活動できていた。




Q:そこには8mmカメラなど機材が揃っていたのでしょうか。


手塚:カメラや編集機、映写機まで一通りありました。部室もあって、そこにみんな溜まって、編集や録音作業をしていた。そういう拠点があったのは恵まれていましたね。


Q:当時、一般家庭での8mmカメラの普及率はどれくらいだったのでしょうか。


手塚:多くは中高年や定年退職された方が趣味で撮影されていました。当時は「小型映画」という立派な雑誌があって、皆さん撮った映像の話題をそこに投稿していたんです。投稿されていた内容は、旅行にいったときの景色や、女性モデルを撮ったようなものがほとんどで、劇映画は誰も撮っていなかった。だから普及はしていたものの、大人が趣味で使うものでした。学生で使っている人はかなり少なかったですね。


小中:ぴあフィルムフェスティバルが始まったのが、僕らが高校を卒業する前後くらい。それで8mmを撮る学生という存在が見えるようになってきた。


手塚:それくらいから機材も爆発的に増えていくんです。当時の8mmフィルムは音を録音する磁気帯をつけることができたのですが、その磁気帯を貼るための機材がアマチュア向けに出ていました。高級な機材でしたが、そういったものが一気に普及していく。ぴあのこともあり、学生たちが劇映画を作り始めたことに便乗して、各社がいろんなもの売り出したんです。種類は豊富でしたよ。そこでシングル8を選んだ人もいるし、スーパー8も選んだ人もいる。いいカメラもたくさんあって贅沢な時代でしたね。




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