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『JFK』仕組まれたバッシング、オリバー・ストーンが挑んだケネディ暗殺事件 前編
ケネディ暗殺事件映画化への道
およそ60年近く前のケネディ大統領暗殺事件が、どれほどの衝撃を世界に与えたか。半世紀以上の時間が流れた今では、もう実感がわきにくくなっている。
「あの事件以来、私は親たちの世代をまったく信用しなくなった」
そう回想するのは、当時17歳の高校生だったオリバー・ストーン監督だ。ペンシルバニア州のヒルスクール在学中だった彼は寄宿舎で昼休みを過ごしていた。そこへ友人がドアを激しく叩いてケネディの死を伝えに来たことを鮮明に記憶している。
共和党員の家庭で育ったストーンは保守的な愛国者だった。民主党のケネディと大統領選を争ったリチャード・ニクソンや、翌年の大統領選に出馬するバリー・ゴールドウォーターといった共和党議員を支持していたせいもあって、表向きは大きなショックを受けたようには見せなかったが、内心は若き指導者の死に衝撃を受けていた。
最初は、報道されるままにリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行だと信じていたが、ケネディ暗殺以降、泥沼化するベトナム戦争に、跡を継ぐと見られていた弟のロバート・ケネディの暗殺など、不可解さを残す事件が相次ぎ、陰謀の匂いを嗅ぎ取り始めた。
1967年、21歳を迎える前日にストーンはベトナムの戦場へ向かった。歩兵を志願したのである。戦場ではマリファナ、LSDを吸い、時には敵兵が潜む塹壕に手榴弾を命中させて戦果を得たこともあった。何度か死にそうになりながら、15か月を過ごしたベトナムから帰国したストーンは、人々の無関心に衝撃を受ける。やがて彼は薬に溺れ、国家に不審を抱くようになった。しかし、ニューヨーク大学でマーティン・スコセッシらから映画を学び始めたことで、人生が定まり始める。卒業後も脚本を書き続けた。
ストーンにとって、国家への決定的な不審を植え付ける出来事となったウォーターゲート事件は、現職大統領の辞任にまで発展したが、その時期に書いた脚本『カバー・アップ』は、秘密組織とFBIが共謀して政治組織の壊滅を図ろうとする物語である。
そんな彼がケネディ大統領暗殺事件を映画化しようと思い立つのは、1988年まで待たねばならなかった。この年の秋から『プラトーン』に続いてベトナム戦争をテーマにした『7月4日に生まれて』の撮影を開始しようとしていた彼は、その直前、ハバナで開催されたラテン・アメリカ映画祭に参加するため滞在したホテルで、出版社の女性と知り合った。彼女は自社から刊行したばかりの“On the Trail of the Assassins”『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(岩瀬孝雄・訳/早川書房)を手渡した。
この本の著者は元ニューオリンズ検事のジム・ギャリソン。彼が1967年に地元の実業家クレイ・ショーを、ケネディ暗殺に関与した陰謀罪で逮捕したことから始まる裁判を中心に記したもので、アメリカの法廷で唯一、ケネディ暗殺事件が争われた実話の回想録である。
ストーンは直ちに目を通して、「まるでダシール・ハメットの探偵もののようだ」と感じた。実際、ケネディ暗殺事件自体、ミステリー映画顔負けの見世物性に満ちている。白昼の衆人環視下でパレード中の大統領が射殺され、近くの教科書倉庫ビル6階から狙撃したとされた容疑者のオズワルドも、2日後の11月24日午前11時20分頃、移送のために連れ出されたダラス警察署の地下駐車場で、マフィアとつながりを持つ実業家のジャック・ルビーによって至近距離から銃殺。真相は闇の中へと消え去った。
それを一地方検事が地元を足がかりに、闇の世界を垣間見ながら様々な証言を集めて裁判に持ち込み、国家の陰謀を立証しようとするのだから映画的な見せ場に満ちている。ストーンは原作を読んだ興奮をこう語る。
「わずかな足取りしかない、いかがわしい犯罪から始まって、地方検事がひそかに手掛かりを追い求め、その手掛かりが次第に大きくなって、気づいたときはもはや小さな町の事件ではなくなっている。私にはそれが非常にパワフルな映画の核心に思われた」(『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』)
ストーンは、直ちに映画化権を押さえた。しかも、その費用25万ドルを支払ったのは彼自身である。これは大手の映画会社が手を出せない危険な企画と判断したからではない。アカデミー作品賞、監督賞を『プラトーン』で受賞し、この直後にも『7月4日に生まれて』で二度目の監督賞を受賞することになるストーンは、この時期にはベトナム戦争をテーマにした作品以外にも、『ウォール街』(87)が高く評価されており、まさに絶頂期だった。
『プラトーン』予告
つまり、ケネディ暗殺事件を映画にすると彼が宣言すれば、直ちに大手スタジオが乗ってくるだろうが、同時にそれは企画段階から情報が漏洩することを意味した。この企画は機が熟すのを慎重に待つ方が良いと判断したストーンは、ポケットマネーで密かに原作を買い取って検討を始めたのだ。
関連書籍を読み漁り、事件の謎、問題点、ギャリソン以外の主張にも目を通した末に、ストーンはギャリソンを主人公に、クレイ・ショー裁判がクライマックスとなる映画にすることを決意する。ただし、問題があった。主人公のモデルとなる実在のジム・ギャリソンには毀誉褒貶があり、言ってしまえばウサン臭い人物であった。彼をモデルに映画を作ることで、トラブルを招く可能性もあった。
そこでギャリソンにアポイントメントを取り、3時間にわたって質問攻めにした。エネルギッシュなストーンは、遠回しに訊かねばならないような内容も躊躇なく問い質し、相手が気分を害することもいとわなかった。
やがて『7月4日に生まれて』を撮影中のダラスでも2人は落ち合った。奇しくもケネディ暗殺の舞台となった街で、ストーンとギャリソンは、『JFK』映画化に向けて陰謀をめぐらすように密かに話し合いを続けたのである。