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『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 中編

©大島渚プロダクション

『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 中編

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ジェレミー・トーマスとテレビ朝日の参加



 1981年1月、フランスのアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭へ審査員で参加した大島は、帰りにパリでジェレミーと面会するが、会った瞬間に以前にも彼と顔を合わせていたことを思い出した。1978年のカンヌ映画祭で、大島が『愛の亡霊』で監督賞を受賞した際、審査員特別賞を受賞したのがイエジー・スコリモフスキ監督の『ザ・シャウト さまよえる幻響』(78)だった。この作品のプロデューサーがジェレミーであり、授賞式、パーティで2人は席をともにしていた。1949年生まれのジェレミーはまだ30代前半の若さで、大島は彼に『戦メリ』を託すことを決意する。


 もっとも、原正人が所属するヘラルド・エースも、ジェレミー・トーマスも、製作費を負担する余裕はなく、出資者を探して製作費を調達してこなければならなかった。この時点で製作費は500万ドル。当時の円相場からすると、12億円近くまで膨れ上がっていた。ジェレミーの参加によって日英合作として製作する枠組みが決まり、製作費も折半するため、国内では約5億5千万円を用意せねばならない。


 松竹が本作の配給権を、子会社の松竹富士を通して購入した額に加えて、大島渚プロダクションからの出資を合わせてもまだ足りない。このとき、大島が原に交渉するよう伝えたのがテレビ朝日だった。これは大島が同局の番組にレギュラー出演していた縁もあったが、後に「テレ朝の天皇」と呼ばれる編成部長(当時)の小田久栄門と大島が友人だった。小田は『戦メリ』への出資が一筋縄ではいかなかったと回顧する。


 「脚本ができてきてもさっぱりイメージが湧かない。テレビ朝日でも、重役のところでストップがかかった。しかし、最終的に大島との友情がこの企画を実現させた。大島がこれで終わるはずがない、大島に賭けてみようと、社内を説得してまわり、納得させたんだ」(「世界が注目する日本映画の変容」)


 さらに小田は出資額について、「テレビ朝日が二億五千万円、大島プロが一億五千万円。しかしこれではあがらず、結果的には、テレビ朝日として四億出すことになる。このとき、松竹としては一億五千万円は出すが、お金が入ってきたとき、この金額はトップオフとしていただきたい、というセコい条件だったね。それほど当時の映画会社は困窮をきわめていた」(前掲)と証言している。


 大島プロの出資分は、大島自身の脚本執筆料、演出料を現物出資したが、さらに自宅を担保に入れて銀行から借り入れて捻出した。なお、大島が頻繁にテレビ出演する姿を、映画の製作費のためと取られることも多かったが、ATG時代のような超低予算映画ならば話は別だが、『戦メリ』のような大作になると、大島個人のテレビ出演料だけでは焼け石に水だった。


 こうして国内での資金調達が成功し、ジェレミーによるイギリスでの金策を待つばかりとなったが、こちらは芳しくない。まだ『ラストエンペラー』(87)をプロデュースする前の彼には、〈ノン・コマーシャル〉な戦争映画を実現させる力が不足していた。そこで原は、ジェレミーとも面識があり、資金調達に長けたイギリスの映画プロデューサーであるテリー・グリンウッドをパートナーに入れて製作費を集めることになった。




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