2022.01.02
男騒ぎのキャスティング
長い苦難の道のりを経て、ようやく製作費が国内外で集まったかに見えたが、実際には海外からの資金調達には100万ドルがまだ不足しており、撮影準備が始まっても、ギリギリまでクランクインできるかどうか、微妙な状況にあった。事実、プロデューサーの原正人は、美術監督の戸田重昌が先行して6月にラロトンガ島へ渡り、収容所のセット建設を始めたのを横目に、いつ中止を進言すべきか迷い続けていたという。製作費は最終的に630万ドルに達していた。当時の相場では、日本円にして約15〜16億円である。
ボウイとの正式な出演契約を締結するにあたってスケジュールを調整すると、アルバム制作が1982年末から予定されており、同年の8、9、10月を映画のために空けることが可能となった。ただし、ボウイのスケジュールありきで進められたため、日本側の出演者に問題が生じることにもなった。
1981年の時点では、ヨノイ=滝田栄、ハラ軍曹=緒形拳で内定していた。2人とも、そうとうな熱意を見せていたという。ところが緒形に1982年のNHK大河ドラマ『峠の群像』の主役がオファーされてしまう。緒形は大島の映画があるからと断る姿勢を見せたために周囲が慌てた。というのも、この段階では『戦メリ』はいつクランクインできるか見通しが立っていなかったからだ。やがて大島の耳にもその話が入ってくるようになり、関係者を通して大河ドラマをやった方が良いのではないかと伝えた。それは、緒形といえども大河ドラマの主役はそうそう回っては来ないと思われただけに、不確定の映画のために待たせるのは悪いという気持ちだったが、それを聞いた緒形は怒り、嘆いたという。
さらに翌年の大河ドラマ『徳川家康』には滝田栄が主役に抜擢されたことから、『戦メリ』の撮影に時間を割くことは不可能になった。こうして緒形・滝田構想は変更を余儀なくされたものの、大河ドラマの主役に起用される寸前の旬の俳優に白羽の矢を立てていたあたりは流石と言えようか。
新たなヨノイ役には沢田研二、三浦友和、友川かずき、ハラ軍曹には若山富三郎、勝新太郎らが次々と候補にあがった。それ以外にも石坂浩二、菅原文太らもオファーされていたというから、もはや手当り次第にも見える。
あるとき、拘禁所長役に決定していた内田裕也に仲介を頼んだ大島は、沢田を口説きにかかった。紀尾井町のホテルニューオータニで3人は顔を合わせ、沢田もヨノイ役へ大いに興味を示したが、すでにライブツアーの日程が組まれており、その間のスタッフの生活を背負っているため、撮影時期を変更できないかと頼んだ。大島からすれば、ボウイを優先するか、それともジュリーかを迫られたことになるが、3年にわたって待たせているボウイにこれ以上の延期を求めることは不可能と判断した。内田はその瞬間を鮮明に記憶している。
「すると沢田はすくっと立ち上がって『それではこの話はなかったことにしてください』ときっぱり。オレは思わずテーブルの下からバンと沢田の足を蹴飛ばしたが後の祭り」(「ありがとうございます」)
内田は、「あいつ断ったんだよ。あのときのデウィッド・ボウイと沢田研二って、あれ以外ないキャスティングなのよ」(「俺は最低な奴さ」)と悔しがったが、確かに完成した映画を観てしまうと、ボウイ×滝田×緒形の『戦メリ』は想像しにくいが、ボウイ×ジュリー×勝新バージョンは容易に想像できる上に、これはこれで観たかったと思ってしまうのは筆者だけではないだろう。
キャスティングの難航が囁かれるなか、『白昼の通り魔』に主演するなど、『夏の妹』までの大島作品にレギュラー出演してきた佐藤慶が、脚本を読んだ上でヨノイ役に名乗りを上げた。しかし、この申し出に大島は、「今回は全部素人で行くことにしたから」と告げた。すでに、大島の脳裏には全く新たなキャスティング案が固まりつつあった。