2022.01.02
ビートたけしと坂本龍一
最初に決まったのは、ハラ軍曹のビートたけしだった。大島とは1981年にテレビのレギュラー番組を半年間共にしていた。そのとき、映画に興味があると言うたけしに、大島は「出る時は必ず主役でなきゃいけませんよ、脇役はだめですよ、自分で監督なさい、あなたは日本のチャップリンになれる、『殺人狂時代』(47)みたいなのがいいんじゃないですか」(「シネマファイル 戦場のメリークリスマス」)と告げていた。この段階で、映画監督北野武の誕生を予告していた大島の先見性には驚かされるが、そのきっかけを『戦メリ』が与えることになろうとは、その時点では大島も知る由もなかった。事実、たけしを起用しようなどとは、その時点の大島は夢にも思っていなかった。
しかし、1982年初頭にふと思いついて脚本を送ったところ、たけしは直ぐにマネージャーへスケジュールを空けるように伝えた。その直後に雑誌の対談で顔を合わせた作家の小林信彦に、こんな話が来ていると話すと、小林は即座に「そりゃ出たほうがいい、すべて、すっぽかしても出るべきですよ」(前掲)と、演技を不安がるたけしの背中を押した。それ以前から、演技者としてのたけしにペーソスがあると評していたこともあったが、小林は若き日に大島から、自分がプロデュースするから監督しないかと声をかけられたこともあれば、『白昼の通り魔』に俳優として出演したこともあり(『絞死刑』で映画評論家の松田政男が演じた検察事務官の役も当初は小林にオファーされていた)、大島映画のスタイルを熟知していただけに、たけしの起用が成功することを見抜いていた。
とはいえ、当時テレビ8本、ラジオ1本のレギュラー番組を持ち、多忙を極めていたたけしのスケジュール調整は容易ではなく、何とか2週間を捻出したもののラロトンガ島との往復時間を差し引くと、たけしの出番を実質10日で撮りきらねばならなかった。この日数では、とても無理だと言う周囲の声をよそに、大島自らが撮影スケジュールを切って、撮りきってみせると宣言した。
続いてヨノイ役へオファーされたのが坂本龍一である。こちらは、迷いに迷った末の決断でもあった。大島も被写体として写っている「男の肖像」(集英社)の中に、坂本の写真があった。それを、かれこれ2か月ほど眺めていた大島は、遂に決断して会いに行く。もっとも、内々にスケジュールの確認などもあったのだろう。正式なオファーの前に、大島が坂本をキャスティングしているらしいという噂が本人の耳にも届いていた。
坂本にとって、大島は学生時代に観ていた映画の監督だった。1967年4月に新宿高校に入学した坂本は、高校在学中はATG映画のメイン館である新宿文化にもよく通った。坂本の高校時代は、大島がATGで『絞死刑』『少年』『儀式』などの傑作を撮っていた時期に重なる。また、同時代の新宿を描いた『新宿泥棒日記』や、自主映画を作る学生たちを主人公にした『東京戦争戦後秘話』(70)に坂本は、「まさに今僕らがやっていることを映画にしている“同伴映画”じゃないか、と思った」(「月刊イメージフォーラム4月増刊号」)と感じ、松竹と提携して撮られた『日本春歌考』に至っては5回ほど観たという。そうした過去の大島映画の記憶と、現在もテレビに出て喜怒哀楽を前面に出すパフォーマンスを行う大島を面白いと思ったことから引き受ける気になったようだ。このとき、坂本は音楽もやりたいと申し出ている。もっとも映画音楽の経験はなかったが、大島は即座に了承した。
ボウイ、たけし、坂本と並んで重要な役を担うジョン・ロレンス陸軍中佐役は、ジャック・ニコルソンやジェレミー・アイアンズが候補に上がったこともあったが、最終的に英国俳優のトム・コンティがジェレミー・トーマスの推薦で決定した。
また出番は多くはないものの、内田裕也、ジョニー大倉、三上寛、室田日出男、内藤剛志、本間優二らは、大島が60年代のように年に数本撮るようなペースで仕事をしていたら、主演映画を撮っていてもおかしくない存在感と色気を持っていた。このキャスティングについて大島は、「とにかく『大日本帝国』と『連合艦隊』に出た奴は絶対出さないぞ」(「月刊イメージフォーラム」83年10月号)と、冗談めかして語っているが、半ば本気でもあった。戦争映画が似合う既存の俳優など『戦メリ』には不要だった。