2022.01.02
租税回避を狙ったニュージーランドロケ
1981年12月、ジェレミーが『ジェラシー』の日本公開キャンペーンのために来日したのを利用して、打ち合わせを進めた。大島はロケハンを行ったフィリピンでの写真を彼に見せると、意外にもオーストラリアでの撮影を提案してきた。すでに同地で撮影経験があるジェレミーは、国内の移動だけで、ジャワと南アフリカに見立てた場所で撮影可能な点をメリットに挙げた。大島も同意し、オーストラリアでの撮影が検討され始めたが、一方でイギリスでは資金調達が出来ないという結論が出てしまう。
これでもう製作中止かと思われたとき、ジェレミーとテリーが〈タックスシェルター〉を用いてオーストラリアかニュージーランドでの資金調達を提案する。「現地の撮影機材やスタッフを使い、現地で撮影すれば助成金が出て、さらに投資家がその作品に資金を投じれば、その資金は税制上の優遇措置を受けられるという制度」(「プロデューサーが語るヒットの哲学」)で、つまり租税回避(=タックスシェルター)になるというわけだ。
両国から出資者が現れたが、大島は判断に迷った。「お金というのもいろいろ性格があるでしょう。(中略)変なブローカーが入ってたり、いろんなことがある。それで、トータルには、どうもニュージーランドのお金の方がいいらしい、という結論に達した」(「イメージフォーラム」82年10月号)。
ニュージーランドでタックスシェルターを用いるならば、大部分を同国で撮影しなければならない。しかし、極寒地では内容に合わないのではないかと大島は危惧したが、よく聞けば気候は温暖で、オークランド市に行けばイギリスのような町並みもあるし、ラロトンガ島に行けばジャングルもあるので収容所のシーンを撮れるであろうという情報がもたらされた。
このとき、大島は本作で最大の決断を迫られた。「ちょっと怪しい金だけれどもオーストラリアにするか、それともニュージーランドの割合いい金でラロトンガへ行くかと。こういう決断を電話でしなくちゃいけないというのは堪らない」(前掲)と悩みつつ、大島は仕事があることから、急遽、美術監督の戸田重昌をロケハンに向かわせて、彼の報告を待って決断することにした。
戸田は、『白昼の通り魔』以来、大島映画の美術を一貫して担ってきた。かつては小林正樹の『 怪談』(64)で、あまりにも壮大なセットを作り、製作会社を破産させたと言われたほどだったが、大島映画では限られた予算の中で映画美術としての最高のアプローチを行い、『絞死刑』の刑場、『儀式』では旧家の豪壮な家屋、『愛のコリーダ』の待合といった見事なセットを作り出した。セットを組む余裕がない映画でも、『日本春歌考』の黒い日の丸をはじめ、ミニマムな工夫で風景を一変させ、戸田の美術が加わることで豊かな画面を作り出した。大島も戸田に全面的な信頼を寄せ、企画を検討するときにも必ず戸田の意見を重視し、『戦メリ』も、原作を読んだ戸田の「絶対これはいい」という言葉を得たことから、映画化を進めた。それだけに、現地を見た戸田から「やれないことはない」という報告を得たことで、大島は決断を下した。かくして1982年5月、ニュージーランドで『戦メリ』を撮影することが正式に決定したのである。