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『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 中編

©大島渚プロダクション

『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 中編

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『戦場のメリークリスマス』あらすじ

1942年戦時中のジャワ島、日本軍の俘虜収容所。そこには粗暴な軍曹ハラと日本語が流暢な英国軍中佐ロレンス、そして収容所長のヨノイ大尉がいた。そこへある日、英国軍少佐セリアズが連れてこられ、ヨノイはその反抗的な態度に悩まされながらも、彼に魅せられてゆく。


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揺れる『戦メリ』――中止と続行の間で



 企画当初は、1980年7月に撮影開始、翌年8月の公開を予定していた『戦場のメリークリスマス』は、主役にデヴィッド・ボウイが決定したものの、いつ撮影を開始できるのか不透明な状況が続いていた。その理由は製作費にあった。


 後に大島は、「企画を始めた五年前は松竹が全額出すようなこと言ってたんだけど、途中で、外国で半分持ってくれる所を探して来いと言い出した。探してきたら今度は、うちはもう製作には参加しない、配給だけやるって言うわけ」(「サンデー毎日」83年6月19日号)と、内情を明かしているが、一社で製作費を負担するには、『戦メリ』は規模が大きすぎた。


 企画書には製作費について、「八億円を予定しています。ただし外国人スターのギャランティによっては減額はありえます」とあり、続けて「製作は、映画製作会社、洋画配給会社、テレビ会社の三社の共同出資による共同製作が最良の形態であると考えます。単に資金の共同だけではなく、三社の経験と特徴が十分生かされることによって圧倒的な成果が期待されるからです」と記されており、〈大作〉のリスクを分散させ、かつ国際的なマーケットに打って出るだけの作品を作るために、こうした共同製作が最も理想的であるという結論に達したようだ。


 1981年、後にミニシアター・ブームの立役者になるヘラルド・エースが設立された。『地獄の黙示録』(79)をはじめとする数々の洋画宣伝を行ってきたヘラルド映画の宣伝マンだった原正人が暖簾分けのような形で新会社を起こしたのだ。このとき、原が掲げたコンセプトは、〈従来の宣伝だけでなく、才能ある人とマーケットを結びつけたい、映画界と映画以外の企業を結びつけたい、日本と外国を結びつけたい〉というものだった。そのタイミングで大島から協力を求められた。


 しかし、原は脚本を読んだ上で、真剣にこの企画を諦めるように進言した。大島が試算したように製作費は少なく見積もっても8億円はかかる上に、収容所の中だけが舞台の〈ノン・コマーシャル〉な作品では、製作費を集めることも難しいと判断したからだ。大島は海外で製作費を半分負担してくれるところを探していたため、原はヨーロッパでの製作パートナーを探す人材を紹介したが、道のりは険しかった。しかし、大島が独力でデヴィッド・ボウイを口説いてきたことから、変化が訪れ始める。


 また、ヘラルド・エースがミニシアターでの単館ロードショーの第1回作品として、ニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』(79)を公開することになり、同作のプロデューサーであるジェレミー・トーマスと接点を持つなかで、彼が『戦メリ』の企画に興味を示した。というのも、ニコラス・ローグ監督の前作はデヴィッド・ボウイ主演の『地球に落ちて来た男』であり、『少年』『儀式』『愛のコリーダ』『愛の亡霊』を観ていたジェレミーにとっては、ボウイが主演する大島の新作は興味ある存在かつ、魅力にあふれていた。




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