「ニューヨーク世界博」と「ディズニーランド」の関係
そこで脚本を担当したデイモン・リンデロフと、原案作成に参加したジェフ・ジェンセンは、ディズニー・テーマパークの成り立ちに立ち返ってリサーチを始める。そして「ディズニーランド」や、ウォルトが1965年に公表した「EPCOT構想」に、1964~65年の「ニューヨーク世界博」(New York World's Fair)(*1)が深く関係していることを知る。そこで彼らは、ここからストーリーを発展させることとし、驚くほど正確に博覧会場が再現された。
ただし、字幕では「ニューヨーク万国博覧会」と出て来るが、これはいわゆる正規の“万博”ではない。1964年は、ニューヨークが英国の植民地になって300年目であることと、国連本部創設15周年を記念して選ばれた年だった。しかし米国では、1962年に「シアトル21世紀万国博」が開催されており、BIE(国際博覧会事務局)の1928年条約では、「同一国における一般博の開催間隔を10年以上」と定めているため、承認が得られないことになってしまう。また通常、万博に用いられる「Expo」という表記は、ローザンヌで開催されたスイスの国内博「スイス博覧会」(Expo'64)を示すものになった。
しかし「ニューヨーク世界博」のロバート・モーゼス会長は、強引に“BIE未公認博”として開催すると決めるが、むしろこれによって様々な問題を抱えた国際博覧会条約から解き放たれた。例えば、「開催期間は6ヶ月以内」と定めていることである。莫大な建設費を費やしながら、たった半年で取り壊さなければならないという、くだらない決まり事に何の意味があるのか。そこで開催期間を、1964年4月22日~10月18日と、1965年4月21日~10月17日の2期に渡る、合計360日間とした。加えて、参加国から土地使用料を徴収するとしたが、これもまた条約違反だった。
完全にメンツを潰されたBIEは、開催を妨害する行為に打って出る。そして国際博覧会条約加盟国に非参加を呼び掛けたため、英国、フランス、ソ連など主要国が辞退することになった(それでも、日本やスイス、メキシコ、インド、タイ、パキスタン、スウェーデン、オーストリア、ベルギーなど約60か国が参加している)。そのため、国際性よりは商業性が全面に出ることとなり、様々な企業パビリオンが、これでもかとアイデアを見せ付ける場所になった。結果として「ニューヨーク世界博」は、かつてなく華やかになり、奇抜なデザインのパビリオン、観客を効率的に運ぶライドシステム、工夫を凝らした映像展示など、後の博覧会やテーマパークに多大な影響をもたらした。
その内の一館が、ウォルト・ディズニーがプロデュースしたパビリオンの一つである、ペプシコーラ提供の「ユニセフ館」だ。ここのアトラクションが、劇中にも登場した「イッツ・ア・スモールワールド」である。これは、1966年にディズニーランドのファンタジーランドに移設され、さらにオーランド、東京、パリ、香港などにも設置され、現在も親しまれている。
https://www.youtube.com/watch?v=i53NaptWfG8
https://www.youtube.com/watch?v=yUO85D5Qwac
*1 「ニューヨーク世界博」は、1939年4月30日~10月31日と1940年5月11日~10月27日にも、同じフラッシング・メドウズ・コロナ・パークで開催されている。この時は、最初から二期に渡っての開催が決まっていたが、BIEは特に問題視していない。1964年の博覧会がもめたのは、モーゼス会長の強引過ぎる態度が原因だったという説が有力である。