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『惑星ソラリス』原作者との見解の違いをも乗り越え、SF映画の傑作たらしめる理由とは

(c)Photofest / Getty Images

『惑星ソラリス』原作者との見解の違いをも乗り越え、SF映画の傑作たらしめる理由とは

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原作者と監督、見解の違い



 このように、乗組員たちの前に現れる「ゲスト」……“いるはずのない”人物たちは、ソラリスの広大な海が生み出していることが、次第に分かってくる。この膨大な量の液体にはどうやら知性があり、乗組員たちの記憶を探り、それを具現化する力を持っているようなのだ。その行動の裏に善意があるのか、それとも悪意があるのかは不明だ。


 やがて、自分がソラリスの構築物であることを知ったハリーは、かつて地球にいたハリー同様に自殺をはかることになる。ここで前面に出てくるのが、人間の存在についての哲学的な問題だ。ハリーは確かにソラリスの構築物であり、その組成も自然科学的に人間とは違うらしい。しかし、生きてものを考えることができる。そして現実の状況に葛藤し、苦悩し、自らの死を選ぼうとすることもできるのだ。それは彼女が哲学的な意味において、“人間”であることの証明ではないのか。本作は、ケルヴィンの罪悪感や、孤独からの逃避へとフォーカスしていく。


 原作者レムは、タルコフスキー監督の映画版を、「SF作品である『ソラリス』を、『罪と罰』のような作品にしてしまった」という旨の発言をしている。もともとタルコフスキー監督がSF的な要素にはほとんど興味がないことは、作中の美術のどこに力が入っているかを確認すれば一目瞭然である。一方で、原作に古典文学のような要素があったからこそ、それがSF小説として規格外の評価を得たのも事実なのである。タルコフスキー監督が、そこにこそ魅力を感じて深掘りしたのは、むしろ自然なことだといえるのではないか。


 本作の設定やテーマを解き明かす大きなヒントとなるのは、ケルヴィンの父親が撮っていた昔のホームビデオを、ケルヴィンとハリーが並んで見るといった場面である。ここで流れるのが、「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」という、厳かで瞑想的なバッハの曲である。讃美歌として、絶望の淵でキリストに救済を求める内容の歌詞で歌われる。


 ビデオには、まだ小さな頃のケルヴィン、若き日の快活な父親、そして水辺に佇む生前の母親の姿が収められている。そしてビデオの最後には、母親同様に水辺に立つハリーが映し出される。撮影者に対するハリーの親しそうな仕草を見ると、おそらくこの部分だけを大人になってハリーを妻にしたケルヴィンが撮影して、ホームビデオに編集して繋げていることが類推される。ここから、ケルヴィンはハリーに母親の影を追っていたのではないかということ、母親の死によって壊れた家族を、ハリーの存在によって繋ぎとめようとしたのではないかという想像をすることができる。


 興味深いのは、ビデオ映像の中のハリーの服装だ。それは、ソラリスによる「ゲスト」としてのハリーに非常に似ているのである。このことからケルヴィンは、このビデオを繰り返し鑑賞し、過去の幸せを懐かしんでいたものと思われる。そして、何度も眺めたハリーの服装が、最も強い記憶として、彼女と関連づけるかたちで再現されたということだ。このことからも、「ゲスト」のモデルがケルヴィンの記憶由来であることが理解できると同時に、ケルヴィンはいまも、幸せだった頃の家庭に対する強い思いがあったことも分かるのだ。





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