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『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』技術革新を牽引したキャメロンが描く“家族の物語”(前編)
2025.12.24
『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』あらすじ
舞台は、神秘の星パンドラ──地球滅亡の危機に瀕した人類はこの星への侵略を開始。アバターとして潜入した元海兵隊員のジェイクは、パンドラの先住民ナヴィの女性ネイティリと家族を築き、人類と戦う決意をする。しかし、同じナヴィでありながら、パンドラの支配を目論むアッシュ族のヴァランは、人類と手を組み復讐を果たそうとしていた。
キャメロンが『アバター』第一章の完結編と語る、『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』(以下FaA)が公開された。実に堂々たる大作で、三部作のフィナーレに相応しい完成度となっている。物語の語り手は、ジェイク(サム・ワーシントン)ではなく、彼の次男ロアク(ブリテン・ダルトン)へ移り、テーマも「異文化への同化」ではなく「家族の物語」に変化して、“父性の神話”が主体となっている。
Index
- 「白人酋長モノ」という批判
- 『アバター』シリーズの核心は父性の神話
- ヘッドマウントカメラ(HMC)の開発
- フェイシャル・キャプチャー・ソルバー
- 『WoW』でより進化したフェイシャルシステム
- パンドラの世界のデザイン
「白人酋長モノ」という批判
このシリーズには、「ありがちで使い尽くされたストーリーだ」という批判を根強く見かける。特に多いのが「白人酋長モノの焼き直しに過ぎない」というものだ。「白人酋長モノ」あるいは「白人の救世主モノ」とは、「白人の主人公が侵略される側の人々に共感し、原住民を率いて戦う…」といった内容の物語類型(*1)を指す。これについては、2022年の前作『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(以下WoW)に関する解説( https://cinemore.jp/jp/erudition/2775/article_2777_p5.html )でも少し述べたが、今回はそこを掘り下げてみよう。
「白人の救世主モノ」の原点とされる、ジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説「モヒカン族の最後」(1826)は、映画『ラスト・オブ・モヒカン』(92)の原作であり、白人でありながらネイティヴ・アメリカンに育てられた主人公のホークアイが、英仏軍やネイティヴ・アメリカン同士の争いに巻き込まれて行くというストーリーである。
これは『アバター』(09)の主人公ジェイクが、元・海兵隊員でありながらナヴィの文化と精神を体得したように、「よそ者」が異文化に同化していく物語である。そして両作品は、主人公が文明側(白人/スカイピープル)の技術と、自然側(ネイティヴ・アメリカン/ナヴィ)の知識を併せ持つ存在として、危機に立ち向かう。
さらに「モヒカン族の最後」には、凶暴なヒューロン族を率いる、恐ろしく残忍なマグアが登場する。小説では、白人の大佐に禁じられていた酒を飲んだ罪により、公衆の面前で鞭打ちの刑に処されたことで、性格が歪んでしまったという設定だ。だが『ラスト・オブ・モヒカン』では、よりこの部分が強調されていた。マグアの村は、過去の英軍の攻撃によって焼き払われており、彼は英軍大佐の心臓を喰らい、二人の娘を殺すと誓う。つまり、自らの家族や仲間を失った喪失を埋めるために、大佐の血筋を絶やすことで復讐しようというのだ。
このキャラクター造形は『FaA』に登場する、アッシュ族のリーダーであるヴァラン(ウーナ・チャップリン)と響き合うものがある。彼女は、火山噴火で故郷を失った絶望から、ナヴィの神であるエイワや、平和な他部族への憎しみと復讐心に駆られており、その描写はマグアの屈折した性格を彷彿とさせる。
また『アバター』シリーズにおける、もう1人の悪役であるクオリッチ(スティーヴン・ラング)も、自分の本体を倒したジェイクと、その家族を抹殺することに執着している。そして『FaA』では、彼とヴァランが復讐と破壊という共通の目的で共闘しており、その姿はマグアの立ち位置と重なる。
*1 例えば『アラビアのロレンス』(62)、『小さな巨人』(70)、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(90)、『不思議の森の妖精たち』(92)、『ラスト サムライ』(03)、『ジョン・カーター』(12)など、60本を超える数の同種の映画が挙げられる。