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『PiCNiC』岩井俊二×浅野忠信×CHARAが挑んだ境界線上の人々【そのとき映画は誕生した Vol.1】
シナリオ版『PiCNiC』は何を描いていたか
シナリオ(脚本)を基にして撮影が行われることから、シナリオを設計図に例えることも多いが、完成した映画と比較すると、シナリオそのままと思うものもあれば、内容はほぼ同じでも演出や演技によって、ずいぶんと印象が変わるものもある。『PiCNiC』のシナリオは公刊されていないので、個人的に入手した『undo』と合本になったシナリオを基に、どのような変化が生じたかを見ていってみよう。
2本とも完成した映画とは構成が異なっている。もちろん、ある日、パートナーがあらゆるものを縛りだし、遂に自分を縛るように要求する『undo』も、精神病院を抜け出して壁の上を歩きながら世界の終わりを見に行こうとする『PiCNiC』も大筋は変わらない。細部の構成が映画とは異なっているのである。
映画版『PiCNiC』の冒頭は、CHARA演じるココが、両親に連れられて車で精神病院にやって来るところから幕をあける。彼女は閉鎖的な病棟の中で虐待されながらも周囲の人々を見回し、やがてツムジ(浅野忠信)、サトル(橋爪浩一)と親しくなる。これがシナリオでは、ファーストシーンが教会の裏庭から始まり、牧師(映画では鈴木慶一が演じた)のモノローグで、教会の塀に一匹の子猫がやって来たが、次の日には三匹に増え、餌を与えると数日後には塀の上に大きな猫までが何匹もやって来るようになったことが語られる。そして、ある日、塀の上にココがしゃがんでいて、置いていた猫用の餌を食べているのを目にする(この場面は中盤に再び登場する)。
次に塀の上を疾走するカメラの映像にタイトルが出る。カメラはやがて塀の上の2人の少年を捉える。精神病院の壁の上で戯れているツムジとサトルである。彼らは車で連れてこられるココの姿を目にする。以降は、シナリオと完成した映画はほぼ同じ展開になるが、シナリオではサトルは最後まで行動を共にするが、映画では途中で死んでしまう。それ以外にも精神病院内での他の患者との対話や、ツムジたちが、世界が終わると告げたことから患者たちが取り乱し、暴動になりかけるのを院長たちがなだめる描写もシナリオには盛り込まれているが、映画ではカットされている。
『undo』『PiCNiC』シナリオ(筆者蔵)
最も大きな違いは、映画には中盤で登場するだけだった牧師が、シナリオでは狂言回し的な役割を担っており、終盤も牧師が登場して幕を閉じる構成になっている。ここから先はオチも含めて割ってしまうので未見の方は読み飛ばしていただきたい。
映画版は、地球の滅亡を目にするために施設を抜け出し、塀の上をつたって歩き続けてきた彼らが行き着いた先の灯台で、ココは自らの命を投げ出すことでツムジの罪の意識を洗い流す。海に浮かぶ太陽を背に、銃撃音に続いてツムジに倒れかかるココがハイスピード撮影で捉えられ、彼女が身体にまとったカラスの羽を用いたコートから無数の羽がスローモーションで舞い散るという美しい映像が見せ場となる。
映画はここで暗転してエンドロールとなるが、シナリオには続きが書かれている。翌朝、精神病院へ連れ戻されたツムジとサトルを前に、看護長たちは、もう一人が行方知れずであることを囁きあっている。そしてラストシーンは、冒頭と同じ教会の裏庭。子どもに腕を引かれてやってきた牧師は、子どもたちが指差す塀の上を見て呆然とする。そこにはココの屍が横たわっていた――。
教会の裏庭に立つ塀を冒頭、中盤、終盤に登場させ、塀の上で彼女たちと話すことを許された唯一の人間である牧師の視点で語られるシナリオは、短編小説のような寓話的な味わいを感じさせる。本作をテレビドラマとして作るなら、牧師の存在がなければ視聴者はとっつきにくい印象を持っただろう。牧師のくだりの大幅な変更は、撮影時なのか編集段階なのかは不明だが、オリジナルビデオ、または映画として公開する場合には、牧師を介した説明は説明過多になるため省いたとも解釈できるし、撮影が進行するにつれて、ココとツムジの物語へと集約されていったことからカットされたとも考えられる。
しかし、ベルリン国際映画祭のプログラマーはこの教会シーンを高く評価したことから、新人監督の作品を上映するフォーラム部門に本作の出品が決まったという。元より、岩井作品には〈宗教的〉な要素が多く、処女懐妊を描いた『マリア』、天使が舞い降りてくる『GHOST SOUP』などがあり、死者との手紙を介した対話に端を発する『Love Letter』は、山に眠る死者に会いに行って呼びかける場面がクライマックスになっていた。
こうした作劇が日本のテレビドラマ、映画の中では異質だったことは言うまでもない。もし、シナリオ通りに牧師が狂言回しを務めていたら、さらに海外では大きな反応を呼んだかもしれない。