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『PiCNiC』岩井俊二×浅野忠信×CHARAが挑んだ境界線上の人々【そのとき映画は誕生した Vol.1】

(C)1996, 2012 FUJI TELEVISION/PONY CANYON

『PiCNiC』岩井俊二×浅野忠信×CHARAが挑んだ境界線上の人々【そのとき映画は誕生した Vol.1】

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塀の上から見た1994年・東京



 塀つたいに世界の終わりを見に行く――という設定を聞くと、海外ロケかVFXを駆使して異世界を作らなければ映像化できないと思いそうになる。しかし、岩井は基本的に都内近辺のみで、一切のVFXに頼ることなく撮影することを選択する。もちろん、これは予算や製作条件の縛りもあっただろう。岩井自身は、「最初に頭に描いたイメージはもっと高いところ。街を見下ろしながら歩くっていうようなイメージがあったので、それに関しては未だに物足りなさがある」(「月刊カドカワ」96年6月号)と語っているが、映画の完成から4半世紀以上が過ぎると、劇中に映される風景の多くが消失し、一体どこで撮ったのか分からなくなっている。本作は東京ロケーション映画としても屈指の1本として記憶されるだけに、ロケ地をたどっていきたい。


 まず、舞台となる精神病院は、錦糸町駅北口の錦糸公園向かいにかつてあった精工舎(現在のオリナス錦糸町近辺)の工場跡。複数の建物が敷地内にあり、時計塔のある中央館(1930年竣工、2002年取り壊し)も印象的に登場する。この近代建築は寓話的な世界観の中に登場する精神病院のイメージと見事に調和し、今では都心にこんな建物があったことに驚く観客も多いだろう。



『PiCNiC』(C)1996, 2012 FUJI TELEVISION/PONY CANYON


 精神病院の塀の上を歩いていた3人が、外の世界へと踏み出す場面に登場するのは、東京学芸大付属高校の塀(世田谷区下馬3丁目7−17近辺)で、今も現存する。高校の塀は精神病院の塀に見立てられているが、その隣に緑に覆われた塀がある。これは道路を封鎖して撮影用に作られたもので、2メートル以上ある塀のセットである。ここにCHARA演じるココが飛び移り、塀の上にさえいれば外界へ出ることが可能であることを示す重要な場面だが、既存の塀ではなく、わざわざセットを組んだのは、撮影にお誂え向きの塀など、そうそう無いからである。ある場所の塀が撮影に相応しいとして、その隣の塀も同じ様に良く、なおかつ出演者が安全に飛び移ることが出来る塀を探し出すのは至難の業だろう。したがって、都内を横断しながら映画的な塀を探し、切り取るように撮っていかねばならなかった。


 東京学芸大付属高校の塀に続いて、ココが一人で川の傍を走るカットは隅田川沿いの堤防である。篠田のクレーンを活用した流麗な撮影で塀の上を疾走するココの全身や足元が映されるが、彼女は厚底靴を履いており、それでいて2メートル以上はある塀の上を走るのだから、ひっくり返りはしないかとヒヤヒヤする。ツムジ役の浅野忠信は、塀の上を歩くのは「正直言ってやっぱり怖かった」(「月刊カドカワ」95年9月号)と回想する。殊に、中央区日本橋川のアーチ橋で知られる日本橋の欄干を3人が歩いている姿を、近くの滝の広場から人々が呆然と見つめる場面の撮影は、「下は川だし、傘とか旗とか持って歩かなくちゃいけないし    、風が吹いたら落ちるんじゃないかと見物人もハラハラしてた」(前掲)と言う。


 たしかに、人が1人立つのがやっとという塀に3人が乗り、時には塀の上で前後を入れ替わったりするのだから、落下の危険がつきまとう。篠田によると、「(塀の)後ろ側にもうひとつ足場がついてるんです。撮影しに行く前に先発隊が行って、見えないように足場を作ってね。時々そっちを歩いたりしても分かんないんですよ」(「アクターズ・ファイル1/浅野忠信」キネマ旬報社)という安全対策が施されていたようだ。


 とはいえ、電車が走行する脇を歩くカットなどは、今見ると危なっかしい。これはJR信濃町駅近くで撮られたが、無許可のゲリラ撮影である。しかも、線路脇を人が歩いているというので、中央線が緊急停車する騒ぎとなった。スタッフは一斉に逃げ、篠田は草むらに隠れて、全員が逃げおおせたか確認する頼りがいのあるところを見せたが、CHARAが手に持っていた小道具の拳銃を預かっていたので、捕まれば騒ぎになっていたことだろう。今ではこんな撮影を行って電車を止めようものなら、撮影中止になっていてもおかしくはない。前述の3日間徹夜を前提にした撮影も含めて、荒っぽい作り方をしていた時代の名残がそこかしこに散りばめられているという視点で、本作を観ることも可能だろう。


 付け加えておけば、ゲリラ撮影が常態化していたわけではない。捜索願が出ている3人を発見した警官から、いとも簡単に拳銃を奪ってしまう場面は、当時まだ工事中だった東京湾岸道路の荒川河口橋付近で撮影されたが、当日に管理者へ交渉して生まれた場面だ。なお、この風景は橋の開通によって今ではもう見ることが出来ない。


 現存しない風景といえば、新宿区信濃町の新宿区立もとまち公園に隣接していた三島食品工業の赤レンガ塀もそのひとつ。教会の塀として登場し、神父との会話が行われる。ただし、教会自体は横浜にあり、カットバックで別々の場所にあるものを同じ敷地にあるように見せている。なお、この三島食品工業事務所の敷地には旧デ・ラランデ邸という1910年に建てられた有名な近代建築が残されており、1999年まで使用され、現在は江戸東京たてもの園に移築されている。


 こうして見ていくと、バブル崩壊以降も、かろうじて残されていた明治〜昭和初期の建造物に付随する塀は、本作の撮影から28年を経た現在、もう大半が姿を消している。その意味では、学校は比較的変化が少ない。ココが落ちている人形を欲しがってツムジに拾ってもらう場面に出てくる勾配のついた赤レンガの塀は、千葉県市川市にある南行徳小学校で撮影されたもので、今も現存している。


 ひたすら塀の上を歩く姿のみが映されるという奇妙な映画でありながら単調にならないのは、それぞれ個性を持った塀を探し出して撮ることで、日常から逸脱した異世界を構築し、見慣れた東京の風景を変貌させたからである。浅野も、「いろんな街の塀の上を歩いたけれど、いつもと視点の場所が全く違うから、普段なら見落としていることにいろいろ気付きましたね」(「月刊カドカワ」95年9月号)と、撮影を振り返っている。


 1994年の夏に東京の風景を変貌させようとしていたのは、本作の撮影クルーだけではなかった。劇中で浅野たちが着ていた白装束と同じ様な格好で、都内を暗躍する集団がいた。この年、「サリンを東京に70トンぶちまくしかない」という教祖の指示を受けて準備を着々と進めていたオウム真理教である。『PiCNiC』公開時、衣装といい、精神病院が宗教施設の様な雰囲気であることから、本作を〈オウムっぽい〉という声が聞こえてきたが、もちろん岩井はそうした事態を予知していたわけではない。しかし、そうした同時代性を持ち得てしまうのが映画の魔力でもあり、それが公開時に不幸を呼び寄せることになった。




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