1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. トロン
  4. 『トロン』史上初の本格的CG映画、誕生への長い道のり (前編)
『トロン』史上初の本格的CG映画、誕生への長い道のり (前編)

(c)Photofest / Getty Images

『トロン』史上初の本格的CG映画、誕生への長い道のり (前編)

PAGES


『トロン』の企画スタート



 大儲けのプランが外れてしまったリズバーガーたちは、経営的に行き詰ってしまう。スタジオを立て直すためには、すぐにでも新企画に取り掛かるしかない。


 実は1979年から、『アニマリンピックス』と並行して開発を進めていた企画があった。それは「コンピュ-ターゲームの世界を舞台にする」という内容である。しかしリズバーガーたちは、コンピューター(*2)に関してほとんど無知だった。


*2 1979年当時のコンピューターと言えば、銀行や企業の研究所で用いるIBM社などのメインフレームか、大学などで使われるDEC社のミニコンが主流である。ミニとは言っても冷蔵庫ぐらいから、大きなものでは一部屋を完全に占領するサイズがあった。もちろんマイコンホームコンピューターと呼ばれる、Apple II、コモドールPET 2001などの個人向け製品もあったが、ホビー用途か、BASICプログラミングを楽しむマニア向けに過ぎず、仕事に使おうとすると失望させられるものだった。



ボニー・マクバードとアラン・ケイの参加



 そこで、新プロジェクトのリサーチとシナリオ執筆が、ボニー・マクバードに依頼される。彼女は、スタンフォード大学大学院卒業の才女で、学士は音楽、修士は映画で取っている。だが、中学生時代からプログラミングを独学しており、大学では夜間にDEC社のミニコンPDP-11でゲームをして遊んでいた。そして1975年から79年まで、ユニバーサル・ピクチャーズで企画の開発責任者を務めている。


 マクバードはこの企画のコンサルタントとして、PARC(Palo Alto Research Center: パロアルト研究所)アラン・ケイを雇うことをリズバーガーに提案した。


 PARCは、ペーパーメディアの衰退に危惧を抱いていたゼロックス社が、1970年に設立した研究所である。ここにはベトナム戦争時代、軍事最優先の研究に嫌気が差した優秀な人材が、全米から50人以上も集まり、斬新で平和的な発明を次々に生み出していた。


 ケイはかつて、ユタ大学大学院でアイヴァン・サザーランド教授に学んでいた人物である。サザーランドは、CGやインタラクティブ・コンピューティング、バーチャル・ワールドなどの概念を生み出した天才科学者だ。



『トロン』(c)Photofest / Getty Images


 ケイは彼の研究室で、後のパーソナル・コンピューティングの基本となるFLEX(FLexible EXtendable)用の言語を開発し、1969年に博士号を得る。そしてスタンフォード人工知能研究所を経て、1972年からPARCに在籍していた。


 ケイはPARCにおいて、FLEXの研究をベースに、子供でも扱えるようなコンピューターを目指した、「Dynabook」というコンセプト(今日のiPad Proに近いイメージか?)を考え出す。そして彼のチームは、1972年に暫定版ハードとして、世界初のパーソナル・コンピューターとなる「Alto」の開発をスタートさせ、1973年に1号機を完成させた。


 しかしゼロックス社は、その斬新さに理解を示さず、一向に製品化(*3)しようとしなかった。その一方でゼロックス社は、Altoのデモンストレーション(*4)を頻繁に開催していた。おそらくマクバードは、そのニュースをどこかで知ったのだと推測される。


 マクバードは、音響カプラーを使って構想段階の脚本をケイに送り、ケイはAltoのワードプロセッサー機能を用いて加筆・修正していった。そして、『トロン』のベースとなる設定が、ケイのアイデアから次々と生まれて行った。例えば「人間のように個性を持ったプログラムたち」「ユーザーに逆らい、電脳空間を支配するMCP(マスターコントロールプログラム: OSの別名)」「光コンピューターの回路を走るライトサイクル」などなど…。


 また、キャラクターの構築にもケイが関係している。例えば、エンコム社のアランは、アラン・ケイ本人がモデルになっており、劇中のオフィスもスタンフォード人工知能研究所やPARCにおける彼の部屋の雰囲気がベースになった。


 そしてマクバードは、ケイとのやり取りが進む内に、彼に対して個人的にも好感を持ち始めた。実際に二人がどんな会話を交わしていたかは、想像するしかないのだが、単に映画のための取材を越える領域まで踏み込んでいたに違いない。例えばケイはPARCに来る前、プロのジャズギタリストとしても活動していたから、マクバードとは音楽の話で盛り上がった可能性もある。


 そしてケイがPARCに失望し、1981年にアタリ社の研究所へ移ってからも交際は続いた(さらに二人は翌年結婚することになる)。


*3 結局Altoは、「XEROX-8010 Star」という名称で1981年に商品化されたが、同時期にIBM-PCが発売され、Starの商業的成功は成し得なかった。


*4 マクバードが訪問したのと同じ1979年には、アップル・コンピューター社のスティーブ・ジョブズも、PARCを見学していた。そしてAltoのデモに大きな衝撃を受け、すぐさま自社で同様のシステムの開発を命じた。これが、1983年発売の16ビット・パソコン「Lisa」となる。Lisaは、1万ドルという高価格のために商業的に失敗したが、そのコンセプトは1984年発売の「Macintosh」へと引き継がれた。



PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. トロン
  4. 『トロン』史上初の本格的CG映画、誕生への長い道のり (前編)