2020.10.17
敵も味方も、みな「被害者」という“鬼”の設定
まず大前提として、『鬼滅の刃』は面白い。それはこれまでに書き連ねてきたような「名作漫画のエッセンス」が「オリジナリティ」としっかり結びついているからこそだが、『鬼滅の刃』が我々読者・視聴者に与えるエモーションは、やはり「泣ける」が大きいように思う。
では、『鬼滅の刃』はなぜ泣けるのか? 「悲劇性」と「心の描写」という2つのポイントに沿って、考えていきたい。
まず、注目したいのは、本作における“鬼”の立ち位置だ。『鬼滅の刃』の“鬼”とは、もともとは人間。平安時代に、新薬で突然変異した貴族・鬼舞辻無惨が始祖であり、他の鬼は彼によって力を与えられた元・人間だ。つまり、ほぼ全員が「最初から化け物」ではなく、人間としての生を経験している。この点が、『鬼滅の刃』の中核たるドラマ部分を形成している。
人間たちが鬼になったのには、様々な理由がある。元から悪に染まっていた者もいるが、病弱だった、迫害を受けた、貧しくて飢えていた等々、「格差」や「差別」といった周囲や社会の圧力によって、鬼の道を選んでしまった者も数多い。いわば、鬼化に救いを求めた「被害者」的な側面が強いのだ。虐げられた者たちにとっては、鬼になることで一発逆転を図ることができ、底辺の人生から抜け出せる。“力”を得られ、自分を絶望に追いやった人間たちへの復讐も果たせるというわけだ。
TVアニメ『鬼滅の刃』鬼情報解禁PV
作中においても、鬼はただ人間を殺すのではなく、“感情”と“思考”を持っている。鬼が人間に対し自分たちの優位性を説き、「お前も鬼になれ」と勧誘するシーンも見られる。これは、自分もかつて人間だったからこそ言えることであり、「話の通じない悪鬼羅刹」ばかりではない部分がミソだ。人間と鬼を隔てるものは、価値観の違いであるということ。ならばこそ、理解しようともがくのが、主人公の炭治郎である。
炭治郎は『鬼滅の刃』が内包するメッセージ性の代弁者として機能しており、自分の家族が鬼に皆殺しにされたのにもかかわらず、「鬼は人間だったんだから 俺と同じ人間だったんだから」と一貫して慈悲の心を見せる。倒した鬼に向かって「神様 どうかこの人が今度生まれてくる時は 鬼になんてなりませんように」と弔うシーンは、当時の担当編集に衝撃を与えたそうだ。
ただ、「倒して一件落着」ではない。被害者が元・被害者である加害者を食い止め、悲劇の連鎖を断ち切ろうとすること――これが、『鬼滅の刃』が示す哀しみのストーリーだ。人間と道を違えた“人間”同士の戦いのため、本作は基本、どこまで行っても切ない。
また、『鬼滅の刃』は味方と敵に分け隔てなく“事情”を付加している。鬼たちが敗れ、死ぬ瞬間を克明に描いているのも特徴的で、走馬灯が駆け巡り、彼らが「死にたくない、無念だ」とのたうちながら消えていく姿は実に哀れであるし、人間だったころの記憶がよみがえり、炭治郎に看取られながら成仏していくさまも悲劇的だ。
“被害者”である人間たちに悲劇性を描きこむのはもちろんだが、“加害者”である鬼たちも例外なく、表層的な悪で終わらせない。そこから浮かび上がるのは、死に対する深い洞察だ。
誰であっても、死ぬのは恐ろしく、孤独であるということ。この真摯な目線が作品全体の柱として機能しているため、『鬼滅の刃』は心をえぐる残酷な描写が、上滑りしていない。あくまで、死を見つめることで、生の儚さと尊さを浮き彫りにするために必要な要素なのだ。