(C)1996, 2012 FUJI TELEVISION/PONY CANYON
『PiCNiC』岩井俊二×浅野忠信×CHARAが挑んだ境界線上の人々【そのとき映画は誕生した Vol.1】
この世に完璧な映画しか存在しなかったとしたら、ひどくつまらない世界になっていただろう。思いがあふれすぎてしまった歪な作品や、思い通りにいかなかったとおぼしきバランスの悪い――けれども、やりたかったことは痛いほど伝わってくる映画が気にかかる。というか、隅に置いておけない気になる。実はすごいことをやろうとしていたんじゃないか、と思ってしまうのだ。とはいえ、結果が伴わなければ意味がないという意見もまた正論である。
しかし、ある種の条件を満たせば、その歪さもまた魅力にもなり得るのではないか。筆者にとっては、岩井俊二監督の『PiCNiC』(94)もそんな映画の1本だ。『Love Letter』(95)、『ラストレター』(20)などで見せた絶妙の語り口からも分かるように、時には制御不能になる映画という厄介な装置を巧みにコントロールして、自身の世界観を見事に映像化してみせる監督だけに、フィルモグラフィを見渡しても、好き嫌いは別にして、あからさまな失敗作は目につかない。
ところが、精神病院を抜け出した3人の男女(CHARA、浅野忠信、橋爪浩一)が、自分たちの住む世界と、外界との境界である塀の上を歩きながら世界の終わりを見に行こうとする『PiCNiC』は、岩井作品としては例外的に歪さが際立つ作品になっている。このシンプルな寓話が、なぜ奇妙な変貌を遂げたのか。その理由は、当初の構想が撮影中にどんどん変わって、ストーリーが途中で大きく変更したことに加え、完成後に監督の意思とは無関係に不完全版での上映が余儀なくされる事態が発生したからである。そこには1995年という時代の転換点とも密接に関わり合う出来事が隠されていた。
Index
- 禁じられた遊び
- シナリオ版『PiCNiC』は何を描いていたか
- 特殊現像と72時間の撮影
- 塀の上から見た1994年・東京
- 撮影中のストーリー変更は何をもたらしたか
- オウム事件と映倫が映画にもたらしたものとは?
- 「日本バージョン」から16年後の「完全版」公開
禁じられた遊び
始まりは山口智子だった。1994年の初頭、雑誌「ザ・テレビジョン」(94年2月25日号)の誌面で、山口が対談相手に岩井俊二を指名した。当時の岩井の代表的な仕事と言えば、宙吊りになった緊縛ピアノが落下する映像が意表を突いた、フジテレビ深夜帯のステーションID『音楽美學』、サザンオールスターズの「エロティカ・セブン」等のミュージックビデオ、深夜ドラマ『GHOST SOUP』『FRIED DRAGON FISH』などであり、前年に放送された『ifもしも/打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』で、テレビドラマとしては初めて日本映画監督協会新人監督賞を受賞したばかりとはいえ、まだ知る人ぞ知る存在だった。
一方の山口は、TBS系の連続ドラマに主演した『ダブル・キッチン』が前年にヒットし、対談が掲載された頃は、同じくTBS系で『スウィート・ホーム』が放送中だった。翌年には『王様のレストラン』(フジテレビ系)が控えていただけに、キャリアの絶頂期に差し掛かろうとしていたと言って良い。そんな時期の山口が、早くも岩井に声をかけるとは目が高いと思いそうになるが、実はそこには黒幕と言うか、布教活動に余念がない熱心なファンの影響があった。当時『居酒屋ゆうれい』(94)で山口と共演していた豊川悦司である。すでに豊川は『世にも奇妙な物語』で放送された『ルナティック・ラヴ』で岩井と組んでおり、その才能に惚れ込んでいた。
この対談で山口は、岩井の作品に刺激を受けたことを率直に語っている。いわく、「テレビでもこういうことができるんだとカツを入れられた感じ」。会話が進むにつれて、テレビドラマで同じような役ばかり演じていることに飽きていることを察した岩井が水を向けると、「私、健全でたくましく見えるらしくて(中略)本当は、すっごく屈折したヤツだから、役も屈折して欲しい」と山口が口にする。それを受けて岩井が、いつか二人でいいものを作ろうと告げて対談は終わる。
当時でも、最後の言葉を額面通りに受け取った読者は少なかっただろう。この手の対談の締めによくある、その場限りの儀礼的なやり取りにすぎない――と思っていると、1か月もしないうちに、岩井は「BRUTUS」(94年5月1日号)の企画「空想美術館」に山口を誘った。岩井に与えられたお題は〈緊縛〉だった。これは前述の『音楽美學』から編集者が発想したようだが、岩井は、「強迫性緊縛症候群」と題した短編小説を添えて、山口が部屋にあるあらゆるものを縛りだし、遂には自身もがんじがらめにしてしまう姿を演出した。撮影を担当したのは写真家の野村浩司である。これが後に中編映画へと発展することになるが、このときの野村との出逢いが、さらなる別の映画も生み出す。
後日、野村のスタジオへ遊びに行った岩井は、近所の住宅街で塀の下にやって来る3人の男女の奇妙な話を耳にする。それは、施設から抜け出して来たとおぼしき知的障害のある若い男性2人と女性1人が、塀のある庭先に入って遊んでいるというものだった。その姿を野村は自宅の窓から眺めることが多かったが、あるとき彼は、3人が塀の下で性行為をしていることに気づく。
この話に刺激された岩井は、「浜辺で暮らす二人の男の子が、都会のショークラブで働く女の子を誘拐し、三人で一緒に暮らす」(「月刊カドカワ」 95年9月号)という以前見た夢を思い出す。この話をいつか映画にと思っていたが、日本を舞台に撮ることは無理だろうと諦めていた。しかし、野村の話を聞き、東京でもこうした物語が成立するのではないかと思うようになり、塀の下から転じて〈塀の上〉というイメージが浮かんで生まれたのが『PiCNiC』だった。
もっとも、それをどう映像化するかは未知数だった。当時の岩井は、すでに長編劇映画の第1作に予定されていた『スワロウテイル』(96)と、TVドラマの企画から映画へスライドすることになった『Love Letter』の原型となる企画を進めていたとはいえ、映画での実績はなく、こうした奇妙な味わいの短編を成立させるには、かつて手がけていた深夜ドラマか『世にも奇妙な物語』しか枠がない。
ここで再び山口智子が登場することになる。前述の「BRUTUS」の撮影を終えて、岩井、山口に加えて豊川が揃った飲みの席で、写真に添えて掲載された短編小説をもとに自主制作でも構わないから映像化したいと話が出る。どうやら、山口との最初の出逢いから、社交辞令や飲みの席での話だけで終わらないことが運命づけられていたのか、岩井はその翌日、フジテレビのビデオ事業部へ営業に出かける。山口と豊川がこんなにやる気になっている以上、どうにかしなければならないという義務感もあったが、意外なほどすんなりとゴーサインが出る。以前撮った『FRIED DRAGON FISH』をオリジナルビデオでリメイクする企画があったため、その枠で製作することになった。それが『undo』(94)である。飲み会の翌日には、もう映像化が決定したことになるが、1本では短いこともあり、2本パックでの製作を求められたことから、急転直下、1994年夏に『undo』に加えて『PiCNiC』が2本連続撮影されることになった。