(c)1983 The Ladd Company. All.rights reserved.
『ライトスタッフ』史実を元に作り上げた、フィリップ・カウフマンの脚色・演出術とは
ヒューストンのセレモニー
シーンは突如、テキサス州のヒューストン・コロシアムに移る。ここでは1962年7月4日に、マーキュリー計画の関係者全員を、新たに設立された有人宇宙船センター(*25)へ招く派手なセレモニーが開催されていた。そしてここにその施設を誘致したのが、地元選出のジョンソン副大統領だった。
テンガロンハットを被って、得意げにセレモニーの司会をするジョンソン。5,000人もの政治家と実業家。住宅を無料で提供すると言って来る、怪しい土地開発業者のフランク・シャープ。30頭の牛の丸焼き。派手なマーチングバンドとチアリーダー。そしてサリー・ランド(ペギー・デイヴィス)のファンダンスといった、混沌とした状況が描かれる。
これはカウフマンの創作ではなく、実際にこのとおりだったらしい。彼は、ランドのダンスシーンを必要以上に長く使い、各宇宙飛行士夫婦がだんだん気まずくなっていくような雰囲気も醸し出している。なにしろ実際の彼女は、当時58歳だったわけであり、温泉地のストリップを家族で観ているような感じだったのだろう。
『ライトスタッフ』(c)1983 The Ladd Company. All.rights reserved.
そしてマーキュリー・セブンの中で、唯一まだ飛んでいないクーパー(*26)が記者たちからインタビューを受ける。質問内容は「この世で最高のパイロットは誰か?」だった。クーパーは明らかにイエーガーを思い浮かべて「彼こそライトスタッフの持ち主だ…」と言いかけるが、トルーディの表情を見て「目の前にいるよ」と答える。
*25 1973年以降は、ジョンソン宇宙センターと改名。
*26 実際はこのセレモニーが開催された時、シラーもまだ飛んでいなかった。
NF-104Aで宇宙を目指すイエーガー
映画はこのヒューストンの喧騒と、静まり返ったエドワーズ空軍基地を対比的に見せて行く。その、だだっ広い滑走路には、空軍の航空宇宙研究パイロット学校(USAF TPS: U.S. Air Force Test Pilot School)(*27)の計画で、ロッキード社が高高度における無重力訓練用に開発した、NF-104A(*28)という特別な機体が導入されたばかりだった。この機種は、ジェット戦闘機F-104Aにロケットエンジンを追加し、空気の希薄な高度でも機体制御を可能にしたものである。
当時アメリカ空軍は、NASAとは別に有人宇宙計画(*29)を進めており、USAF TPSはその訓練機関だった。そしてイエーガーは、1963年からここの校長を勤めていた。映画では、クロスフィールドがNF-104Aを見ながら、「残念ながら我々の開発計画はこれで幕だ。今後の資金は全てヒューストンへ」と言わせている。またイエーガーは、ソ連が1961年4月28日にデルタ翼機Ye-66A(E-66A)にロケットブースターを搭載して達成した、34,714mという航空機単独による最高高度記録をこの機体なら破れると考え、XS-1時代から組んでいる相棒のリドリー(*30)を誘う。
『ライトスタッフ』(c)1983 The Ladd Company. All.rights reserved.
そしてイエーガーは、正式な手続き(*31)も踏まずにNF-104Aに乗り込み、対流圏界面を突き破って空気の希薄な成層圏に挑戦する。だが突然機体は制御不能に陥り、きりもみ状態となって落下し始めた。彼は操縦を諦め射出座席で脱出し、モハーヴェ砂漠の彼方から生還した姿を見せる。(*32)
*27 USAF TPSは、陸軍航空軍におけるテストパイロットの養成機関として、1944年に設立された。1962年からはその役割を拡大し、空軍独自の有人宇宙計画パイロットの訓練を始めている。
*28 NF-104AはF-104Aをベースにして、排気ノズルと垂直尾翼の間にRocketdyne AR2-3ロケットエンジンを追加し、過酸化水素ガスを噴射して姿勢制御するRCS(リアクション・コントロール・システム)をノーズ先端と両主翼に合計12個取り付け、さらにショックコーン(エンジンのエアインテーク中心の円錐形構造物)の先端を伸ばし、翼幅も61cm延長したものだった。1号機が1963年12月6日に12万800フィート(約36.8km)の高度を記録している。
劇中に登場する実機は、西ドイツ空軍のF-104Gから翼端の燃料タンクを取り外し、再塗装しただけのものだった。また特撮で用いられたミニチュアも、これに合わせて標準型のF-104の市販模型をベースにしており、特徴的なロケットエンジンを表現していない。結果として、通常のジェットエンジンのままで宇宙に近い高度を目指すという、かなり奇妙なシーンになってしまっている。
*29 この時点で空軍はまだ、有人宇宙機X-20ダイアソナ計画を進めていた。X-20にはこのUSAF TPSの卒業生たちが搭乗する予定で、さらに宇宙ステーションMOL(有人軌道実験室)の乗組員もここから誕生するはずだった。しかし偶然にも、イエーガーがNF-104Aで事故を起こした日に中止が決まっている。これはベトナム戦争のための経費が、宇宙計画予算にも響いたためで、アメリカ政府は空軍(偵察などの軍事利用)とNASA(非軍事の科学研究)の二本立てという方針を断念せざるを得なかった。結局、イエーガーが宇宙に行く夢は果たせなかった。
*30 これは作劇上のウソで、リドリーは1956年から軍事援助顧問団(MAAG)として日本に赴任していた。そして1957年3月12日、白馬上空をC-47輸送機で飛行中に墜落死している。この時、彼は副操縦士であり、イエーガーは「彼が操縦席についていれば、こんな惨事は起きなかったはずだ」と語っている。
*31 これもまた作劇上のウソで、イエーガーは正式にNF-104Aの3号機で最高高度記録に挑戦し、1963年12月10日に行われた2回目の飛行で10万4000フィート(約31.7km)に達したものの、墜落事故を起こした。
*32 実際は、射出した座席がパラシュートの紐に絡まり、座席を打ち出したロケットの燃料がイエーガーの頭に降り注いだ。ヘルメットのフェイスプレートは砕け、ボンベから流れる純粋酸素によって内側のゴムが燃え上がり、手袋も溶け落ちてしまう。彼は左顔面と首に二度から三度の火傷を負い、二本の指の先端を失った。
だが、奇跡的に回復して再びUSAF TPSに復帰し、翌1964年の1月29日には実験機M2-F1の試験飛行を行っている。さらにベトナム戦争ではB-57戦略爆撃機を100回以上も飛ばしている。そして1975年に引退後も、コンサルタントとして度々空軍やNASAのために飛行していた。