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『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 前編

©大島渚プロダクション

『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 前編

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『戦メリ』前史――商業映画との格闘



 大島映画を観たことがあれば、東映映画に関わることに違和感を覚えるかもしれないが、大島と東映の関係は意外に長い。松竹大船撮影所の助監督を経て、『愛と希望の街』(59)で27歳の若さで監督デビューし、第2作『青春残酷物語』(60)のヒットで松竹ヌーベルバーグの旗手として注目を集めた大島だが、4作目となる政治ディスカッション劇『日本の夜と霧』(60)が上映3日で打ち切りとなったことが禍根を残し、1961年に松竹を退社。そんな大島に真っ先に救いの手を差し伸べたのが東映だった。そして初の時代劇となる『天草四郎時貞』(62)を大川橋蔵主演で撮るものの、時代劇版『日本の夜と霧』とも言うべき長回しの多用と、ディスカッションが延々と続く暗い画面は、東映のドラマツルギーとは水と油でしかなく、興行は惨敗。その影響から、続いて大映で撮る予定だった山本富士子主演の『尼と野武士』も製作中止になってしまう。


 これで大島は商業映画を撮る力量がないという烙印を、松竹・東映・大映から事実上押されたことになるが、実際『天草四郎時貞』から3年間、映画を撮る機会は訪れず、以降は自身のプロダクションである創造社による自主制作か、古巣の松竹と提携する形式、あるいは製作費1千万円という超低予算で日本アート・シアター・ギルド(ATG)を母体にした映画作りしか道は残されていなかった。ATGでは『絞死刑』(68)、『少年』(69)、『儀式』(71)などの輝かしい成果をもたらしたものの、低予算での映画作りに疲弊した大島は、『夏の妹』(72)を最後に創造社も解散し、フリーの映画監督として、より自由な映画作りの道を模索することになった。しかし、日本の大手映画会社は大島を忌避し、監督候補に名前が挙がるだけで拒絶反応が出るなかで、折にふれてオファーをしてきたのが東映だった。特に東映は、大島いわく「声をかけてくれる会社」だった。


 脚本家の笠原和夫が『あゝ決戦航空隊』(74)の監督に大島を推薦したときは社内から反対されたが、俊藤浩滋、日下部五朗といった東映京都撮影所のプロデューサーたちは、大島に何度かアプローチを行っている。俊藤は『ザ・ヤクザ』(74)の前に、大島に正統的な任侠映画を撮らないかと持ちかけ、大島も乗り気だったという。「あの人の感性はたいへん古風で、しかも内面では女性的なところがあって、任侠映画を撮らせたら絶対うまいと思う。新しい監督なんだけれど、資質としては義理人情の世界にぴったりや」(「任侠映画伝 俊藤浩滋」)と、俊藤は大島を評する。この指摘は『戦メリ』にも、そのまま当てはめることが出来るのではないか。


 この時期、大島は深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズ(73〜74)について「キネマ旬報」に長い評論を書いたり、やくざ映画を撮りたいと漏らすこともあった。さらに深作の『やくざの墓場 くちなしの花』(76)には、大島が警察の本部長役(!)で出演するなど、東映やくざ映画と接近しつつあった。そして、俊藤は再び『やくざ戦争 日本の首領』(77)でも大島に監督をオファーした。「何人もの監督を知っているが、大島監督は最も浪花節的性格を持っており、この作品にふさわしいと思った。先日、会ったところ、ぜひやりたいと承諾してくれた」(「スポーツニッポン」76年9月22日)と語っているが、その後、大島は脚本に納得できずに降りている。


 難解な映画を撮ってきた印象のある大島だが、松竹で撮った初期作『青春残酷物語』、『太陽の墓場』(60)を大ヒットさせた実績があるだけに、企画さえフィットすれば、大衆受けする娯楽映画が撮れるはずだという読みがプロデューサーたちにはあったのだろう。東映の辣腕プロデューサーたちだけでなく、外部から参入した若きプロデューサーから見ても、大島渚という存在には惹かれるものがあったようだ。1976年の秋、『愛のコリーダ』の日本公開を控えた大島は、同日公開される『犬神家の一族』(76)で映画界に参入した角川書店社長の角川春樹と「朝日ジャーナル」(76年11月19日号)で対談を行った。活字に残されたものを読むかぎりでは、2人の対話はすれ違い気味だが、最後に角川はこう提案した。


「大島さんどうですか、ぼくとスキャンダルやりませんか。スキャンダラスな監督とスキャンダラスなプロデューサーの組み合わせ、これはいいと思うんだが」


社交辞令にも思える発言だが、角川は真剣だった。ギャランティにも言及し、監督料を支払った上で、映画の純利益からも一定のパーセンテージを支払うと告げた。そして、「儲かればプラスアルファが入るわけで、半年、一年に一本しか仕事ができなくとも、そのプラスアルファ分で、芸術的再生産の余裕ができる」と大島に言い放った。娯楽映画をヒットさせて、その儲かった分で芸術映画を撮れば良いじゃないかと言っているわけだ。


 この発言を大島が不快感を持って聞いていたであろうことは、商業主義に妥協しなかった経歴を知っていれば想像に難くない。もっとも、角川がまったく無邪気に、好意的に申し出たことに疑いはなく、大島が監督する角川映画の可能性を疑おうとしなかった。事実、対談の翌日に監督依頼の電話を大島にかけた角川は、直ぐに1冊の文庫本を送った。森村誠一の「人間の証明」である。すでに角川映画第2弾として準備が進んでおり、脚本は『青春の殺人者』(76)で鮮烈なデビューを飾った長谷川和彦に依頼されていた。


 話題先行の組み合わせにも見えるが、確かに1976年の日本映画界で話題を集めたのは、『愛のコリーダ』の大島渚であり、『青春の殺人者』の長谷川和彦だった。『犬神家の一族』を市川崑に撮らせたように、『人間の証明』を、監督・大島渚、脚本・長谷川和彦という布陣で作らせようとする角川のこうした映画的な嗅覚はかなりのものである。結局、長谷川は角川とまたたく間に決裂し、大島も「私には向いてないと思います」と断ったが、角川は「神のお告げです。ぜひやってください」と食い下がったという。しかし、大島は最後まで興味を示そうとしなかった。


 ことほどさように、『やくざ戦争 日本の首領』も『人間の証明』(77)も拒絶した大島だが、唯一、食指を動かしたのが『日本の黒幕』だった。『愛の亡霊』と『戦場のメリークリスマス』の間に存在したはずの幻の映画の運命をたどることで、『戦メリ』誕生の原点も明らかになるだろう。




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