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『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 前編

©大島渚プロダクション

『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 前編

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ロバート・レッドフォードと高倉健、幻のキャスティング



 脚本の第1稿を書き終えると、企画書が作成された。製作費を調達するために、脚本を読むだけでは理解しづらい映画の狙いや、興行面でのアピールポイントがここには記されている。


 最初期に書かれたのは、タイトル部分が空欄になった「映画企画書」という表紙が付いたもので、1979年10月に刷られたものだ。ここには当時の映画市場の状況が記されているので、いくつか紹介してみよう。


 日本映画と外国映画の観客動員数が五分五分となり、観客は両者を区別することなく観ていること、日本映画は「超大作」「大作」の時代となり、TVスポットをしつこく打つことで浸透させて大きな収益を上げており、今映画を作るのならば「超大作」「大作」でなければならないこと、しかし、そうした作品の中には宣伝先行で中身が伴わない作品が大部分を占めており、観客に警戒心が芽生えていること、その反動で名作志向が生まれていること等が書かれており、具体名は挙がっていないが、これは大島が監督依頼を断った『人間の証明』をはじめとする角川映画が念頭に置かれているのは間違いないだろう。


 この時期には黒澤明の『影武者』(80)、深作欣二の『復活の日』(80)の公開も控えており、大作ブームは過熱気味でもあった。内容を伴わない大作の空虚さ、TVスポットの連打による話題作りが食傷気味にもなっていただけに、大島の新作はこうした現状を打破する異色の大作になると企画書ではアピールされている。完成した映画を後年から観ると気づきにくいが、『戦メリ』は、70年代後半から80年代初頭にかけて日本映画界を席巻した〈大作映画ブーム〉と〈戦争映画大作〉へのアンチテーゼとして企画された面もあり、日活ロマンポルノへの自らの回答としてハードコアポルノ『愛のコリーダ』を撮ったように、大島映画は同時代の映画状況を鋭敏に感じ取って作られる異議申し立ての一面もあった。


 この企画書で目を引くのは、セリエ(セリアズ)役について、次のように書かれている点だろう。


「セリエ役のキャスティングは本作品の成否を決する。原作者一案としてマイケル・ヨークの名をあげ、一方彼の友人であるロバート・レッドフォードと連絡をとっています」


 この時期のレッドフォードは、『大統領の陰謀』(76)を経て、初監督作『普通の人々』(80)の撮影中にあたる。後にこの作品でアカデミー監督賞を受賞したが、俳優としてのキャリアはピークを迎えており、大島映画に出演するとなれば、国内外からの出資も期待できる。


 ちなみに、大島が原作を読んで最初にセリエ役としてイメージしたのは、『アラビアのロレンス』(62)に出演した頃のピーター・オトゥール、ヨノイ役には市川雷蔵や、若き日の仲代達矢をイメージしていた。こうした現実には不可能なイメージキャストを思い浮かべてしまうところに、映画が持つ夢があるが、しかし、映画製作は常に現実を前に具体化していく作業である。資金面やキャストも含め不確定要素がまだまだ多い中、大島は映画を具体化させるために脚本の改訂を進めた。タイトルは『影の獄にて』から『抱擁の大地』を経て、1980年1月に書かれた第2稿では遂に『戦場のメリークリスマス』へと改題されている。この稿では完成した映画の構成がほぼ出来上がっており、ようやくハラ軍曹も姿を現す。


 この段階では、1980年7月に撮影開始、完成は翌年2月、1981年のカンヌ映画祭へ出品し、日本公開は1981年8月を予定していた。キャストはレッドフォードに加えて、ヨノイ役は高倉健、ハラ軍曹役は緒形拳が想定されていた。大島の証言によれば、高倉健については、「脚本読んでもらったんだけど、もう一息はかばかしくない。つまりあの辺の人になると、主役が四人いる。そのone of themでしかないというのがすごく気になるんだね」(「GOUT」No.1)という結果に終わったようだ。


 1980年3月、『愛の亡霊』の全米公開キャンペーンに合わせた渡米の際に、大島はレッドフォードと面会を求めたが、カンヌ映画祭で大島の『儀式』を観ていたこともあり、スムーズに会見の段取りは進み、ニューヨークで顔を合わせることになった。レッドフォードはこの年の1月に初監督作『普通の人々』を撮り終えたばかりだった。「キネマ旬報」(81年6月下旬号)に掲載された会見記をもとに、2人の対話を再現してみよう。


 事前に送られた原作と英訳した脚本を読んでいたレッドフォードは、「慌てて一度読んだだけだから誤解があるかもしれないが……」と前置きした上で、「日本軍の敵の捕虜に対する残虐行為を、特に映画の前半におけるそれを、アメリカのオーディエンスは理解できないと思う」と指摘した。「はじめから理解できるようなら、そんな映画はつくる必要がない。理解できなかった者同士が最終的に理解に達するというのが、この映画のテーマなのだから」と大島が反論すると、「でも、アメリカのオーディエンスは映画の終わりまで待ってくれるほど辛抱強くはない」。レッドフォードがそう口にしたとき、2人は共に笑った。「わかるだろう?」「わかった」という意味の笑いである。


大島は、「アメリカのオーディエンスは――」という言葉が二度にわたってレッドフォードの口から出たとき、これは無理だと悟った。なぜなら、日本の大手映画会社の首脳たちに大島が企画を提示したとき返ってくる否定的な言葉は、いつも決まって〈日本の観客は――〉だったからである。おそらく、『日本の黒幕』が暗礁に乗り上げたときに東映の岡田茂社長と対面した席でも、大島はこの言葉を耳にしたはずである。


 別れ際にレッドフォードは、「新しいシナリオが出来たらまた話がしたい」と述べた。そして、別の企画でもいつか一緒に仕事をしようとも言いながら握手を交わしたが、大島は『戦メリ』に関しては、彼と再交渉することはないと意志を固めていた。


 こうして企画を成立させる上で最も重視されたレッドフォードの出演はなくなり、早くも暗雲が立ち込める。興味を示していたスポンサーも離れ、さらに間が悪いことに『影武者』と『復活の日』はヒットして製作費を回収するところまではこぎつけたものの、リスクのある高額な製作費に見合った収益をあげるまでには至らなかったことから、大作ブームは終焉を迎えようとしていた。〈異色の戦争映画大作〉を成立させるために不可欠な要素が、相次いで失われようとしていた。


 それでも、1980年5月にはインドネシアとフィリピンへロケハンに向かっている。映画の設定としてはジャワが舞台だったが、実際にそこで撮影を行うには政情や利便性からも難しく、フィリピンが有力なロケ地候補となった。最初の企画書に「すべてロケーションでおこない、セットは使用しません」と明言してある通り、ロケ地に収容所のセットを建て、室内シーンも含めて現地で撮影するという計画である。


 6月には脚本は第4稿に達し、細部のディテールが整理されていったが、中心となるセリエを誰が演じるか決まらないために、資金集めも配役も停滞したままだった。このとき、意外なキャスティング案が浮上する。デヴィッド・ボウイである。




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