2022.01.01
脚本完成までの紆余曲折
6月13日、東映本社で開かれた委員会の席で正式に大島の起用が決定し、『日本の黒幕』はスタートした。翌日、内田裕也主演の『餌食』(79)の公開を控えた若松孝二を励ます会に出席した大島は、同席した内藤誠に新作映画を手伝ってもらいたいと告げている。内藤は東映出身で脚本家、監督としても多くの作品を手掛けており、協力者として申し分ない存在だった。
東映で作られる大島の新作映画――このニュースは、数日後にはマスコミを駆け巡った。大島は、「本当に題名通りのフィクサーを描くのなら、児玉誉士夫とロッキード事件まで視野におさめなければ、やる意味はないと思います。その点、東映も了解したので引き受けることに決めました」(「夕刊 読売新聞」79年6月16日)と抱負を語った。この記事には少年テロリスト役について「新人を起用する予定」と記されていた。それを読んで直ちに新聞社へ連絡した17歳の少年がいた。記事を担当した記者から大島渚プロダクションの電話番号を聞き出して電話すると、意外にも大島本人が出た。「君は誰だ?」と尋ねられた少年は、三上博史と名乗った。寺山修司の映画『草迷宮』(78、日本公開は1983年)に出たことがあると告げたが、同作は完成したものの当時まだ公開されておらず、世間では無名だった。幸い大島は既に『草迷宮』を観ており、作品も三上も好意的に見ていた。数回の面談を経て、大島は『日本の黒幕』の少年テロリスト役に三上の起用を決めた。
高田の執筆が続く中、脚本の完成を待ってから準備を始めたのでは間に合わないことから、大島は先行してキャスティングやスタッフ編成、ロケハンも開始していた。少年テロリストに三上、フィクサー役には、若山富三郎、安藤昇、勝新太郎などが候補に上がったという。美術監督は『白昼の通り魔』(66)以降、大島映画を一貫して担ってきた戸田重昌、照明に『愛のコリーダ』も手掛けたベテランの岡本健一が決まった。
6月末になると、高田は脚本を半分近く書き終えたが、それを読んだ大島は難色を示した。伝えたイメージと高田の書いてきたものに溝があったのだ。『やくざ戦争 日本の首領』を大島が断ったのも、こうした理由があったからだったが、今回は何とか実現に漕ぎ着けたい。そこで〈助手〉を呼び寄せることにした。事前に根回ししていた内藤誠である。
内藤は7月3日に大島から呼び出されて赤坂の大島プロを訪ねると、共同脚本の執筆を頼まれた。もっとも、これは東映からの依頼ではなく、大島が個人的に〈助手〉として頼んだもので、つまり、高田の書いた脚本を大島と共に改訂する作業を担うという意味である。7日には大島と内藤は京都の旅館に入り、2、3日後には高田が書いた脚本の続きが送られてきたが、内藤は改訂よりも、最初から書き直してはどうかと提案した。つまり、高田バージョンと並行して密かに大島・内藤バージョンの脚本を書こうというのだ。こうした方が、大島の意図がプロデューサーにも高田にも伝わりやすいというわけだ。
やがて、大島・内藤バージョンが全体の3分の2ほど書き終えたところで、高田による脚本第1稿が仕上がったが、やはり大島にとっては受け入れ難い脚本だった。このときの大島は、かなりの興奮状態にあった。遂には執筆した高田を前にして、彼の書いた脚本を床に叩きつけた。プロデューサーの日下部は後に、「高田はよく耐えたものだ」(「シネマの極道 プロデューサー一代」)と、この出来事を回想している。
そして大島は、日下部プロデューサーに自分たちで書いた脚本を見せて判断を仰いだ。東映は仕方なく高田の脚本ではなく、大島・内藤による脚本で撮影に入ることを決めた。なにせ公開日まで残り3か月強しかなく、この映画の最大の売りは〈監督・大島渚〉なのだ。しかし、そうなると今度は大島が慌てた。今、書いているのは高田版に対する自分の考えを伝えるためのものであり、正式な脚本家をつけてほしいと申し入れた。大島の希望は笠原和夫の参加だったが東映は理由をつけて同意せず、松田寛夫、神波史男といった東映映画を手がけてきた脚本家たちもスケジュールが合わないという。大島は最後の頼みの綱とばかりに大和屋竺に声をかけるが、彼もまた日程が合わないという理由で断ってきた。
結局、大島・内藤で書き上げるしかなく、ほぼ2時間近い分量の脚本は出来上がったもののラストの処理に悩むことになる。少年が田中角栄をモデルとする元総理を射つという設定に引っかかりを憶えた大島は、企画の根本にも疑問を感じ始め、最終的にフィクサーの葬儀に現れた少年テロリストが遺影に向かって発砲するという結末を用意した。