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『林檎とポラロイド』ランティモスやカウフマンの後継者。’84年生の新鋭監督が示した、異常な日常の作り方

©2020 Boo Productions and Lava Films

『林檎とポラロイド』ランティモスやカウフマンの後継者。’84年生の新鋭監督が示した、異常な日常の作り方

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異常を“日常化”させる導入の妙



 『林檎とポラロイド』のあらすじはこうだ。記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界。バスの中で目覚めた男(アリス・セルヴェタリス)は、発症者たちが社会性を再確立するための回復プログラム「新しい自分」に参加。「自転車に乗る」「仮装パーティで友だちを作る」「ホラー映画を観る」といったタスクをこなし、その過程をポラロイド写真で記録していく。


 ストーリーラインだけを見ると、基盤となる「記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界」というマキシマムな設定に目を引かれるが、本作はあくまで主人公の周辺に絞ったミニマムな世界を描いている。ニク監督の師匠的な存在であるランティモス監督が『籠の中の乙女』や『ロブスター』(15)で行っていたように、奇妙さが日常に浸透していることを信じ込ませる描写が、本作は抜群に上手い。


 『籠の中の乙女』は、外界を知らない子どもたちのもとに、父親が女性を連れてくるシーンから始まる。『ロブスター』は、車から降りた女性が馬を射殺するショッキングなシーンののち、コリン・ファレル演じる主人公が妻に別れを切り出され、ホテルを訪れるシーンへと続く。前者は「家に閉じ込められた子どもたちの生活」、後者は「45日以内にパートナーを見つけなければ動物にされる世界の日常」を描いており、どちらも他者から見た“異常”が“普通”のこととして受け入れられて久しい世界を描いている。端的に言えば、そうなった“始まりの日”は描かれないのだ。



『林檎とポラロイド』©2020 Boo Productions and Lava Films


 いまでこそ「世界的なパンデミックが日常化した世界」に対する耐性が我々観客にはついているが、コロナ以前であれば「外に出たらだれもかれもマスクをしている」画をスクリーンで観た際、そこに異常性を感じたことであろう。それは、「世界がそういうものである」という前提が、観客の脳内にないからだ。逆に言えば、その前提があれば一個人の日常を描くだけで「パンデミック下の日常」が成立する。となると、「記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界」を『林檎とポラロイド』はどのように描いたのか?


 まずは部屋に流れるラジオ番組。ここで「“新しい自分”プログラム」「記憶喪失者」というワードが開示され、なんとなくのヒントが示される。とはいえ、ここで語られるのはあくまで一言二言くらいだ。次に、これが極めて上手いのだが――主人公が家の外に出ると、車が渋滞している。その先頭車両に乗っている男性、何やら様子がおかしい。後続車両から降りてきた女性は「車を動かしてください」と言うが、男性は先ほど車から降りてきたばかりにもかかわらず「僕のじゃない」「僕が(運転していた)?」と言う。


 肝心なのは、その後の女性の行動。何かを察した彼女は、動揺もなく「救急車を呼びますね」と告げるのだ。先のラジオ番組とこのシーンで、観客には「この世界では記憶喪失者が続出し、日常化している」ことがわかる。さらに言えば、これらがあくまで主人公の背景で起こっている風景として処理されていることで、より日常感が強まる。


 全体の尺が90分の『林檎とポラロイド』は、冒頭3分ほどで手早く、かつエレガントに「この世界のリアル」の説明を済ませてしまう。さらにもう一つ、「記憶」を扱う物語において不可避な懸案に対する対処法も淀みがなく、実に清々しい。それは「記録媒体」についてだ。





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