2022.01.03
謎の失踪を遂げる照明技師
大島と外国人キャストは撮影前の穏やかな時間を過ごしていたが、その裏側で時間に追われていたのが技術スタッフである。6月からラロトンガ島で収容所のセット建設に入っていた美術監督の戸田重昌は、ジャングルだった谷を切り拓き、2万4,000平方メートルの土地に幾つもの収容施設を建てていたが、大島が島にやって来た撮影開始2週間前の時点でも、5、6割しか完成しておらず、成島撮影監督を不安がらせた。セット建設は資材の手配に手間取り、遅々として進まない様子だった。
撮影機材も同様で、8月上旬にシドニーで調達された照明機材を乗せた船便がラロトンガ島に入港したのは予定日を過ぎた8月15日。クランクイン1週間前である。ところが積荷を降ろす手続きに時間がかかり、陸揚げが出来たのは18〜19日。もう撮影開始まで数えるほどしか日が残されておらず、機材が使用可能かどうかもチェックもしなければならないため、日本人スタッフの照明担当Kが、その作業を一手に担っていた。しかし、日程がどんどん後ろ倒しになっていくことを成島から叱責され、Kには負担がかかっていたようだ。
Kは松竹大船撮影所出身で、撮影監督の成島の指揮のもとライティングを行う照明技師である。今回も成島の推薦で参加することになったが、クランクインを3日後に控えた20日、Kがこつ然と姿を消したことが明らかになる。最初に気づいたのは成島の助手を務める撮影のSだった。これまでの仕事でもKと行動を共にすることが多かったSだが、この日の朝7時頃にKの部屋をノックしたが応答がない。前日の陸揚げ作業で疲れたのだろうと、そのままにしていたが、午後1時に再度ノックしても応答がないことから、フロントでマスターキーを借りてKの部屋を開けたところ、もぬけの殻だった。ベッドは乱れておらず、朝の時点でKはすでに部屋にはいなかったのだと思ったとSは証言する。部屋にはパスポート、現金、革靴、手帳など身の回りの品がそっくり残されており、サイドテーブルの上に無造作に置かれていた手帳は、その年の1月1日から行方不明当日分までが乱暴に破り取られていた。残された服や物から判断するに、Kは作業中と同じ薄手のジャンパーにジーンズ、ゴム草履の姿で『戦メリ』の脚本を持ったまま姿を消したようだ。
成島によると、Kと最後に顔を合わせたのは前日19日の23時半。機材の積み下ろしを終えた報告のためにKが成島の部屋を訪れたので、労をねぎらうべく冷蔵庫のビールを勧めたがKは断り、部屋を出た。これがKの最後の目撃情報である。つまり、19日の23時半から翌日の7時までの間に、Kは着の身着のままで姿を消したことになる。なお、ラロトンガ島では、19日の夜から翌朝にかけて豪雨だったという。
Kの失踪を伝えられた成島は、大島を含めた他のスタッフにこの事実を伏せた。というのも、6年前にPR映画の撮影現場となった茨城で、成島から人前で罵倒されたKは、そのまま仕事を放り出して姿を消した前例があったからだ。このとき成島は驚いて警察に届け出たが、1日の空白を経て、Kは都内の自宅へ帰ってきている。その後も仕事を共にしているのは、映画人同士の現場でのささいな行き違いということで不問になったのだろうか。それもあってか、今回も次の日には帰ってくるのではないかと、成島たちは楽観視したようだ。6年前の失踪を知るSも同じ思いを抱いたという。
しかし、国内と孤島での失踪を同一視したのは、正常性バイアスで目が曇っていたと言われても仕方あるまい。後に成島は、6年前の出来事に加えて、「他のスタッフに事情が知れたら何事もなかった場合、Kの立場がなくなるだろうと判断したから」(「週刊平凡」84年3月16日号)と釈明したが、いたずらに時間は過ぎ、遂にKは帰ってこないままクランクインの23日を迎えた。その日、成島は大島に「Kは風邪をひいて、ホテルで臥せっている」と伝えた。
この日の午前8時55分、ラロトンガ島へ坂本龍一をはじめとする俳優部18名を乗せたニュージーランド航空166便が着陸した。到着して直ぐにバスでラロトンガン・ホテルへと向かい、ホテルでの食事や洗濯、雑費の支給など諸々の説明を受けていたが、同じ頃、午前11時に収容所のオープンセットでは、ファーストカットとなるシーン33「収容所全景」からキャメラが回り始めていた。この壮大な俘虜収容所のセットは、デヴィッド・ボウイが戸田美術監督の手を握って驚嘆したほど見事な出来栄えだった。シーン33の2カット目も滞りなく終了し、初日のスケジュールは無事に消化した。