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『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 後編

©大島渚プロダクション

『戦場のメリークリスマス』大島渚×デヴィッド・ボウイ×ビートたけし×坂本龍一 異色の戦争映画が実現するまでの軌跡 後編

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始まる撮影、見つからない照明技師



 翌8月24日もシーン33の続きで収容所の実景から始まり、続いてシーン34の病棟兵舎の場面。デヴィッド・ボウイが、トム・コンティと共に初めてキャメラの前に立った。この日、坂本龍一にも出番はあったが、剣道を行う際の気合の声のみでの出演となった。


 正午すぎに撮影は終わり、夜になって成島は大島にKの失踪を告げた。5日にわたって行方がわからず、撮影が始まったというのに、いつまでも臥せっていると虚偽報告をするのは限界と感じたのか、撮影部内だけで密かに進めた捜索が限界と感じたのかは定かではないが、「Kが?」と報告を受けた大島は驚いた様子だったという。出国前のインタビュー(「イメージフォーラム」82年10月号)でも、大島はKの名前を二度にわたって口にしており、顔も名も知らぬスタッフではないだけに、驚くのは当然だろう。大島の指示で地元警察へ連絡され(通報は翌日)、撮影は続行されることになった。Sによれば、大島は「われわれは仕事をしに来たのだから、予定どおりロケに専念する。Kさんのことは島の警察に一任しよう」(「週刊平凡」84年3月23日号)と即決したという。


 25・26日も病棟兵舎の撮影が続いたが、撮影3日目にあたる25日、ようやく初めてのフィルム・ロールチェンジが行われた。1,000フィートマガジンの交換というから、3日間の撮影で合計9分強しか撮っていないことになる。これには外国人スタッフも驚きの声をあげた。ハリウッドスタイルの撮影では、1つのシーンの頭から終わりまでを通して撮るマスターショットの後で、様々なアングルから繰り返し同じ芝居を通しで撮ることになる。こうした撮り方を行うことで、編集時に様々なつなぎ方が模索できるようになり、監督の現場での判断ミスを編集でカバーすることも可能となるが、必然的にフィルムを湯水のように使うことにもなる。



『戦場のメリークリスマス』©大島渚プロダクション


 一方、大島が育った撮影所――というよりも1950年代の日本の大手映画作会社では、フィルムの使用量が厳しく制限され、撮影前から仕上がりが何フィートのフィルムになるか決まっていた。つまり、あらかじめ上映時間が決まっており、その1.5〜2倍しかフィルムを使わせなかった。そうなると、様々なアングルから撮っておくとか、念の為に撮っておくということはありえない。最初から必要なカットのみを厳選して撮ることになる。その習慣がついていた大島は、予算があろうとも無駄にフィルムを回すことはなく、今回もプロデューサーのジェレミー・トーマスから、フィルムがどれだけ必要か問われて「5万フィート」と答えた。2時間強の映画の約2.5倍のフィルム量である。「せめて10万フィートに」と言うジェレミーに、「5万フィートでも使い切れない」と大島は述べた。実際、無駄なものを撮らない上に、本番一発OKのワンテイク主義の大島の撮影現場で使用されるフィルム量は、わずかなものでしかなかった。


 26日の夜、依然として見つからないKについて、撮影のSが日本で帰りを待つKの妻へ国際電話をかけた。日本とラロトンガ島の時差は19時間。日本時間では27日の夜だった。地元警察へ通報したことから、流石に家族へ伝えないわけにはいかないということだったのだろうが、行方不明になってから6日経っての連絡は、遅すぎると言わざるを得ない。報せを受けたKの妻は、直ちにラロトンガ島へ向かうことを決意する。


 撮影は、クランクインから4日ほどは、ゆったりしたペースだったが、28日からは一気に忙しくなった。その男がラロトンガ島にやって来たからだ。朝5時に空港に到着したビートたけしは、そのまま現場へ直行して撮影準備に入った。10日間でたけしが演じるハラ軍曹の出演シーンを撮り切るために猶予はなかった。そして、たけしの到着と同時に坂本龍一の出番もいよいよ始まろうとしていた。




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